2013年6月26日水曜日

「進め!JPO(ウランバートル編)」 後藤健太氏

UNOPS
後藤健太氏
「進め!JPO(ウランバートル編)」
ML連載記事

進め!JPO(ウランバートル編)(1)
 今回は第一回目ということで簡単に自分の略歴及び現在の仕事の概略を紹介をさせていただきます。
 私は大学を卒業した後、4年ほど伊藤忠商事という会社で働いていました。その後会社を辞め、アメリカの大学院へ2年間留学しました。(John F. Kennedy School of Government, Harvard University) 留学中にJPO試験(1997年度)に合格し、卒業後2ヶ月でモンゴル赴任(United Nations Office for Project Service, UNOPS) となりました。現在はモンゴルの国連開発計画 (United Nations Development Programme, UNDP) のオフィスの中で経済移行・統治プログラム (Governance and Economic Transition Programme) のアソシエート・エキスパートとして働いています。
 ここで少しUNDP とUNOPSの関係について説明する必要があると思います(UNDPは知っていてもUNOPSを知らない人は多いと思うので)。UNOPSというのは、実は昔(数年前)まではUNDP内の一つの部門だったのですが、それが近年(何年前だったかは忘れました)分離して一つの独立機関となったのです。この機関の主な仕事は他の国際機関あるいは援助国などのプロジェクトを実施、管理、あるいは代行したり、ときにはエキスパートを送り込んだりすることです。つまりクライアントである援助機関・国の持っているプロジェクトに何らかのサービスを提供して、そのサービス料で生きているという、ちょっと私企業にも似たような機関です(ちなみにUNDPは各国(主に先進国)政府の自発的な献金によってまかなわれている機関です)。
 私もUNDPモンゴルの経済移行・統治プログラムを統括するプロジェクトにUNOPSのアソシエート・エキスパート(準エキスパート?)としてビッチリと張り付いて仕事をするという想定の下でモンゴルに派遣されているわけであり、どちらかといえばいくつかのプロジェクトを抱えてそれらの進捗状況をモニター・監視するという関わり方をするいわゆる普通のUNDPのプログラム・オフィサーとは立場が少し(かなり)違うということがいえます(通常UNDPにJPOとして派遣された場合は概してこのプログラム・オフィサーというファンクション(職能)で仕事をするようです。)。
 というわけで本来私のような立場で途上国へ派遣されたらプロジェクトのある場所(私の場合はモンゴル政府内)に机を構えて仕事をするわけなのですが、いろいろ事情が有って現在はUNDPのオフィス内で仕事をしています。(どんな事情だったのかは、また後日お話します。非常に大事なことですし、皆様にも起こりうることなので)
 だらだらと書いているうちに長くなってしまいました。今回は自己紹介ということでこの辺りにしておきます(余りにも長い文章は誰にも読まれないという法則が有るので)。
 次回からはもう少し詳しくJPOに至るまでにしたこと、JPOになってからやっていること、そして今後やろうとしていることなどを報告いたします。
 
進め!JPO(ウランバートル編)(2)
 前回は手短に自己紹介をさせていただいたので、今回は私がJPOとなるまでにやってきた事を簡単に述べさせていただきます。
 私は大学を卒業後、伊藤忠商事という商社に入社しました。伊藤忠では繊維グループのアパレル部門に配属され、コテコテの商人(アキンド)として4年ほど走り回ってました(まいどー!の世界です)。ここでは私が商社で何をやっていたか、そしてなぜ国連を目指すに至ったかなどについては詳しく書く事はしません。それよりも、私が日本でサラリーマンとして働いたことによってプラスになった事をかいつまんでお話したいと思います。
1)私の現在の専門は経済発展に関わるものです。経済発展を実現するにはさまざまな関わり方が有りますが、私は常々ミクロレベルの経済活動に興味が有りました。つまり、経済システムの中の個々の主体(企業や消費者など)が繰り広げるダイナミックな諸活動を通して経済の発展を捉えていくというようなことです。その中でも特に私は民間部門 (private sector) の開発に興味が有り、民間部門の中のメインプレーヤーで?る企業の行動理論がいかなるモノなのかを理解するためにも伊藤忠での経験は非常に大きな財産となったと思います。この感覚としての知識みたいなものは現実的に意味の有る政策提言などをする時に非常に大切なものだと思います。
2)そういった「感覚・経験としての企業の行動理論」を体得できた事に加え、元の会社では確固たるスキルとしてビジネスの基礎の基礎を修得させてもらったと思います。それは簡単な簿記・財務諸表の読み方に始まり与信管理、輸出入の実務(通関)をも含んだ国内・海外の物流システムの仕組み、さらにはライセンス契約案件や合弁案件の立上げ方などをも教わりました。後で述べますが、こういった有る意味「特化された」能力は国際機関では非常に大事になります。それを給料をもらいながら体得できた事は何にも代え難い学習の場だったと考えてます。
3)国際機関での仕事のやり方・進め方やその雰囲気は日本の会社と比べた時にかなり違う点も多々有りますが、それでも根本的には同じで?るという気がします。もちろん相対的にみれば例えばUNDPの仕事の進め方などがいかに官僚的で(官僚なのだからしょうがないかも)ある意味「ぬるま湯的」だといえるかもしれませんが、少なくとも日本の(というかどの国のでもいいのですが)民間企業でちゃんと働いた事の有る人は国際機関に入ってからもその時に培ったマネジメント能力のようなもの(自己管理能力に近い)が使えると思います。
 以上の事は、おそらく商社にいてもメーカーにいても流通にいても銀行にいても(つまりどんな業種でも)ちゃんと働いていた人なら身につくものだと思います。しかしいかなる仕事をする上でもこれらはいずれも体得しないといけないものであり、なかなか本を読んでも獲得できるものではないと思います。そういう意味で、私はJPOとなる前に民間企業で働いて良かったと思っています。
 ただしこれは敢えて強調いたしますが、もちろん大学院等を出られてすぐにJPOとなった方もいらっしゃいます。そういう方々も私の知る限り優れた方たちばかりです。私のここでのポイントは何も国際機関にいきたいとはじめから決め込んで民間企業への道を「捨てる」必要は全くないということです。フレキシブルに考えていった方が道は開けるものだと思います。
 次に留学についてですが、おそらくカリキュラムとか大学院の紹介などは各校のインターネットのウェッブページを見ればわかると思いますので、ここでは省きます。私が留学していたのはアメリカのJohn F. Kennedy School of Government というハーバード大学の公共政策の大学院です。ここではわざとミクロ経済理論と計量経済系の授業ばっかりとってました。この大学院では安全保障や環境政策や、科学技術政策などいろいろな講義群を抱えていたのですが、先にも申し上げました様に、私の関心は一国の経済をマクロなレベルで見るというよりはここの経済主体の活動というミクロなレベルで見ていくという事でしたので、ミクロレベルの経済分析をするための「ツール(道具)」を培うのに全力を傾けました。
 大学院の活用の仕方にはいろいろ有ると思います。浅く広くいろいろなトピックを一通り勉強するのもいいと思いますし、私みたいにかなり偏りながらも一つのトピックを掘り下げて勉強するのも手だと思います。しかし個人的な意見になりますが、私企業などを見ていますとマスターを取得した人間に期待するものは何かに関するexpertise (専門性)だといえ、それは程度の差こそアれ、国際機関でも同じだと思います。(実際にUNDPがエキスパートの集団かと聞かれれば、間違いなくその答えはNO だと思いますが、まさにその実態こそがUNDPを危機的状況に追い込んでいるのでアリ、それを打開すべく今この機関は大改革(大掛かりな首切りを含め)を実行しようとしています。このことはまたいずれ書きます)そういう意味でも自分の興味の有るものが何かをじっくりと考えて見極め、それを掘り下げるような勉強をされると逆にどこにいって仕事は有るし通用すると思います。
 このことはこのメーリングリストの他の方々も何度かおっしゃっている事ですけど、良く「国際機関で働きたいために留学したいけどどこの大学院へいって何を勉強したらいいのか」というような事を聞かれる方がいらっしゃいますが、それは本当に意味のない質問だと思います。国際関係とか公共政策とかのみならず、ビジネススクールでもメディカルスクールでもロースクールでも公衆衛生でも教育でもなんでも良いのです。これだというような興味のもてる分野を見つけ、そのエリアのエキスパートとなって、その能力を発揮する場としてたまたま国際機関が最も適した場だったというのがおそらく理想的な就職のパターンだと思います。(やりたい事によっては民間企業やJICAなどの方が良いかもしれない事も多々有るので)またそういう動機で入らないと、たとえ国際機関に入ったとしても楽しい仕事(自分の本当にしたい事ができる仕事)に巡り合えないと思います。
 いやー、長くなってしまいました。今回はこの辺にしておきます。
 次回からはモンゴルでの仕事の話をします。
 
進め!JPO(ウランバートル編)(3)
 前回まではJPOになるまでの話をしました。今回からはJPOとしての仕事についてお話します。第一回目のメールにも書きました様に、私はUNOPSのassociate expert としてUNDPモンゴル事務所に勤務しております。現在の私の業務の主な内容を簡単にまとめれば下記のようなものになります。
1)統治及び経済移行プログラム (governance and economic transition programme) のgoverning institutions capacity building project の諸活動の遂行。具体的にはモンゴルに汚職防止メカニズムを構築するというイニシアティブを推し進めています。
2)UNDPのsenior management (Resident Representative-RR 及び Deputy Resident Representative-DRR) に対し、モンゴルの社会・経済政策の動向をレポートする。具体的には国家予算の分析レポートを作成したり、対モンゴルの他の国際機関や他の開発・協力機関(JICA, USAID, GTZ等)を含むODA諸活動を分析し、Compendiumのようなものを作るという事などをしています。
3)UNDP RR のDonor Coordinationへのサポート。モンゴル外務省(正式には対外関係省)に有る国際協力関係の窓口と常に連絡を取り、ドナーミーティングを開催したり支援国会合のフォローアップをしたりします。
4)その他のアドホック(場当たり的な)諸雑務。
 JPOの一年目(1998・8-1999・8)までは上述の第1項目の"Governing Institutions Capacity Building Project"が私の仕事の70%を占めていたと思いますので、今回はそのことについて少し書きます。
 モンゴルのUNDP事務所には大きく分けて下記の3つの「部門」が有ります。それぞれの部門(programme) は9-10個のプロジェクトで成り立っています。
1)Human Development (教育関係、貧困問題、HIV/AIDSといった社会的諸問題を扱います)
2) Environment (環境全般)
3) Governance and Economic Transition -GET(民営化された企業のリストラクチャリング、汚職防止、
Information and Communication Technology の開発政策へのapplication、decentralization といったちょっと政治的色彩が強い問題も含みます。)
 当Governing Institutions project は現在上の三つ目のGET部門に属する一プロジュエクトなのですが、もともとはGET部門を統括するumbrella projectのようなものでした。つまりこのプロジェクトの下にdecentralization とか企業のリストラクチャリングプロジェクトなどが一つの大きなプログラムのcomponentとして存在しており、その「上位プロジェクト」としてそのプロジェクトは位置づけられていたのです。企業で言えば企画統括部とか経営企画部とか言うような感じのものです。
 そのころ、当プロジェクトには50歳くらいの経験を積んだ Chief Technical Adviser(CTA)がプロジェクトサイトであるgovernment house (日本の国会議事堂に当たるような所)に常駐しており、私はそのCTAの下で働く事になっていたのです。当然オフィスもUNDPモンゴル事務所内でなくその国会議事堂のような所の中にもらうというちょっと面白そうなセッティングでした。私がJPOの任地のオファーを人事センターからいただいた時はそういうことがかかれたTerms of Reference (職務記述書-縮めてTORと呼ばれています)が送られてきたわけです。人事センターからも「こういうケースはどちらかといえば珍しく、勉強になると思う」というようなコメントをいただいたほどです。私もアドミン系の仕事に時間の大半を奪われるプログラムオフィサーになるよりは実際のプロジェクトに張り付いて「開発の現場」を体験したいという強い願望が有ったのでそのTORを見た時はほとんど迷わずにオファーを承諾しました。
 さて、驚いたのは赴任してからです。着任してUNDPに赴き、ブリーフィングを受けていると、ちょっと様子がおかしい事に気付きました。様子がおかしいというよりはブリーフィングの内容が自分の期待していた方向に進展していかなかったという表現の方が正しいかもしれません。何とそのCTAが私の着任する2ヶ月前にいなくなってしまった(転勤した)ということらしいのです。しかもそのGoverning Institutions Capacity Building project の統括的な性格が大きく見直され、その下に有った個々のプロジェクトも当プロジェクトのコーディネーションから外れ、当プロジェクトを含め全てを独立したプロジェクトにしたらしいのです。私が当初採用されたTORが全く意味のないものになってしまったというか、私がUNOPSからのJob Offerを承諾したベースがまるっきり崩れてしまったということをそれは意味していました。
 こういうことは実は比較的平気に行われているようです。人事センターの方でもここまでフォローアップするのはとても無理な事ですので、とにかくこういう状況になってしまったら自分の言いたい事だけはちゃんと言って、納得のいく形で新たなTORを「作り上げる」ことだと思います。実際に私はUNDPのプログラムオフィサーになれというような事を当オフィスから数回いわれましたが、そのようなひどいプロポーザルは断固「却下」してきました。(プログラムオフィサーとしての仕事自体がひどいという事ではなく、自分がアクセプトした仕事内容と余りにもそれは違いすぎるので「ひどい」と書いたのです。プログラムオフィサーの皆様、どうぞご理解下さい)
 ちょっと話がそれてしまいましたが、私の仕事はそんな状況の中で始まりました。
 当プロジェクトのAssociate Expertという立場は維持しつつ、当面の間はUNDPのオフィスの中で働くというアレンジメントがなされました。(実際には1年5ヶ月たった今もUNDPに居座っていますが)
 さて、プロジェクトの具体的な活動内容ですが、そのプロジェクトの主な仕事内容は上にも書いた通り汚職防止システム関係 (Anti-Corruption)に関わるものでした。プロジェクトのカウンターパートは、扱っているトピックがトピックなので、
1)大統領府(大統領官房長官)
2)内閣官房 (内閣官房長官)
3)国会 (国会事務局長)
4)裁判所(法務大臣)
 というちょっとびっくりするくらいhigh-ranking な4人でした。日本でなら恐らく私のような若造には面会もできないような人たちです。
 UNDPの仕事の仕方の大部分がそうですが、当プロジェクトも基本的には本質的な部分はコンサルタント(それも外部の)を雇ったりします。前にも書きましたが、私は経済系のバックグラウンドを持ってはいるものの、Anti-Corruptionについてはまったくの素人でしたので、当然私がその方面で意味のあるアドバイスができるはずがありません。残念ながらUNDP内にもこのような(或いはほとんどの分野においての)スペシャリストはいない、またはいたとしても非常に希で# ると思います。この事実は今日のUNDPの最も大きな弱点でこれがその存続すら危うくしているのですが(アタリマエかも)、その事はまた別の機会に書きます。このAnti-Corruptionの場合ももちろんそうでした。
 まず何をする場合でも、その案件に関わる当該国の状況を調べて分析しなければなりません。そのために当プロジェクトはシンガポールとイギリスから二人のコンサルタントを雇い、それぞれ2つずつのミッション(計4ミッション)を組みました。シンガポールからはNational University of SIngapore のAnti-Coruption 専門のprofessorにはじめの2つのミッションをリードしてもらい、基本的な現状分析・調査をしました。次にイギリスのコンサルタントにその現状分析に基づいてモンゴル政府に対してAnti-Corruption の政策提言をしました。このイギリスのコンサルタントというのが実は元香港の汚職防止機構(?)- Independent Commission for Anti-Corruption (ICAC) という強力な組織のトップだった人物で香港をアジアではもちろんのこと、世界的に見ても汚職の比較的少ない国(地域?)にした立役者だったのです。つまり実務にM 打ちされた理論と政治的繊細さ(political sensibility)をうまく兼ね備えた人物で# ったのです。このコンサルタントのミッションに私は全行程同行しましたが、この時は開発の現場における「真実の瞬間」をたくさん見た様な気がして非常にエキサイティングな体験をしました。
 プロジェクトのカウンターパートである上述の四人はもちろん、その他にもモンゴル国大統領をはじめ首相、最高裁判所長官、外務大臣、大A 大臣といった閣僚、そして大勢の国会議員など国家組織の中枢にいる人たち及び警察組織、メディア、NGOや市民団体、ドナー各国の大使・常駐代表にも話をするという機会が有り、今までのAE生活ではもっともインテンスィブで勉強になった時期だったと思います。
 こういうイニシアティブの中で最も注意しないといけないもののうちの一つに、他の国で成功したモデルをそのまま別の国に当てはめてしまうということが有ります。当プロジェクトはそのことにかけては細心の注意を払いました。つまり、香港で成功したシステムをそのまま導入するのではなく、基本的な、押さえておかなければならないポイントだけは明らかにした上で、それをどうやって押さえるかという仕組み(システム)はモンゴルの人たちがモンゴルの諸制度に合ったような形にテイラーするという方向でアドバイスをする事にしたのです。それがうまく機能するためには、国の意思決定のトップの間及び現場におけるその国のプロフェッショナルたちとの間、そしてそれをサポートしうる市民層(citizenry)のコミットメントが必要で、そのconcensus buildingをうまく達成しうるかという点が最も重要なポイントだった様に思います。Anti-Corruptionというトピックは下手をすれば政治的に(或いは私的に)対立している相手を攻撃する道具になりえたり(そうなったら本当に危険な状況になります)するので、このconcensus building は実に重要な事でした。当プロジェクトは、このミッションのおかげで実にうまくこの点を達成したと思います。
 さて、Anti-Corruptionの大まかな戦略 (National Strategy)が定まり、それに関するナショナル・コンセンサスもえられた後でプロジェクトが次にした事はまとめると下記の様な感じになります。
1)関係する法律などの見直し
2)National Action Plan for Anti-Corruption の具体化
3)Anti-Corruption Survey の実施
 長くなってしまいましたのでこの辺で止めときます(昼休みももう終わりそうですし)。
 ただ一つだけ付け加えさせていただきたいのですが、もしもこれを読まれた皆様が「モンゴルは汚職で腐り切った国なのだ」という印象を持ってしまったとしたら、それは間違いだという事です。汚職(Corruption)はどの国でもあります。
 問題はその度合い(レベル)の違いだと思います。そしてその「度合い」で言えば、モンゴルは世界の中でも決して悪い部類には入りません。ただし、それでもそういう問題が国内に有るという事をはっきりと自分達で認め、解決していこうという姿勢はなかなかできない事で# り、敬意を表するに値すると思います。(実際に当プロジェクトのAnti-Corruption活動はそもそもモンゴル政府の要望により始まったものです)
次回はまた別のトピックについてお話しいたします。
 
進め!JPO(ウランバートル編)(4)
 
 前回は私が関わっているプロジェクトの話を少ししました。今回はそれ以外の仕事について簡単にご紹介したいと思います。
私の採用のベースになった職務記述書(TOR)が書かれた時の状況と、実際にモンゴルに着任した時の状況に大きなギャップがあり、そのために現在の私のTORをここの常駐代表と副代表と協議をした上で作ったということは以前のメールで少し説明したと思います。とりアえずアドミン関係の仕事の多いUNDPのプログラム・オフィサーとしてではなく、実際のプロジェクトにより近い経済移行・統治プログラムのアソシエート・エキスパートとして汚職防止イニシアティブを担当するということ以外ははっきりとした担当を決めず、「モンゴルの社会・経済政策の動向のレポート」とか「ドナー・コーディネーション」とか、特定のプロジェクトには関わりのない事柄のサポートをするということで私のTORは決りました。こういうTORを持つことは一方で開発の現場において幅広い経験ができ、そのことがいい勉強になるというポジティブな面もあるのですが、現行のプロジェクトに収まりきらないものはほとんどこっちに回ってきてしまうという、考えようによってはちょっとネガティブな面があるのも事実です。今回はそういったアドホックな仕事をご紹介いたします。
1) Result Oriented Annual Report (ROAR) やCountry Review Report等のような定期的に提出しないといけないレポートの作成。
 おそらく他の国連機関でもそうだと思いますが、UNDPにはやたらと提出すべき書類というのがあって、その作成のためにべらぼうな時間がかかったりします。余りにも時間がかかるので、お得意のコンサルタントを雇ったりして外部の人間にそのレポートを書かせたり、そのレポートを書くための資料を書かせたりすることもあります。実際にUNDPのプログラムの評価といったようなレポートの場合はむしろ外部の人間を雇って書いてもらった方が第三者的な、公正な評価レポートが出来るという意味でわざとコンサルタントを雇ったりすることも# るのですが、そうでなくとも本当にUNDPはコンサルタントを雇って仕事をすることが多いと思います。ところが、そういう仕事は、どれか一つのプロジェクトに深く関係しているという場合を除いたらほとんどがUNDPの活動全体に関わることが多いので、担当者を決めるとなるとTORのフレキシブルな(宙ぶらりんな)私にほぼ間違いなく降りかかってきます。そこでそういう仕事が降ってきたときに私が何をするかといえば、そういうコンサルタント達のTORを書いたり、コンサルタントが複数のチームに分かれている場合はそのばらばらに書かれたレポートを一つのレポートに纏め上げたりします。コンサルタントをまったく使わないでレポートを作成する場合ももちろんあります。そういうときは書く内容のプロジェクトを担当しているプログラムオフィサーにその仕事が降りていきます。例えばgovernance やcorruption関係のものなら私、情報通信関係なら同僚のJPOの山中氏、HIV・AIDS関係のものならだれだれという風にそのプロジェクトに近い担当者に降りていきますが、そういうレポートの前半部分などは決まって”National Context”とかいうような総論的な部分が# って、そういったものはまたこっちに回ってきます。一度そういうことを書いたり関わったりしたりすると、次からは「おまえは前回にも同じようなことをやったんだから今回のも頼む」というような雰囲気でその仕事を任されることが多々あります。オフィスによってはシニア・エコノミストが常駐している大きなプログラム・サポート・ユニット(PSU)が有ったりして、そういう”substantive”なレポート類はそこで作られたりしますが、当オフィスのPSUは一人しかいない小さなものなので、「なんちゃって」エコノミスト的に私がそういう任務を遂行しているような形になっています。それはそれでいい勉強になったりしますが、形式的に提出すべき書類が多いこのような組織では時々そういうことにうんざりする事も有ります。
2) Donor Coordination / Donor Meeting 等のサポート。
 ドナーコーディネーションというのは、その字の示す通りのことで、その国にいるドナーたちの実施している諸活動の調整や協調を促したりすることを指します。
 モンゴルにはUNICEF、UNFPA、WHO、世界銀行、ADB,IMFというような国際機関や、日本をはじめアメリカ、ドイツ、イギリスというようなバイラテラル(二国間)の援助機関や、Soros Foundation、Asian Foundationや Save the Childrenといった国際NGOやがそれぞれ独自のプロジェクトなどを実行しています。援助の受益国がしっかりとした開発政策や方針を持っていて、その下で援助機関が体系的に援助を実施するという状況であれば、何もわざわざコーディネーションなどしなくてもいいのですが、少なくともモンゴルの場合は国としての方針がしっかりと定まっておらず、全体像が見えないままに各援助機関がそれぞれのプロジェクトを他の援助機関と連携なしに実施している感が否めない状況です。知らないうちに似たようなプロジェクトをUNDPとUSAID(アメリカのJICAのようなもの)でやっていたり、もっとひどい場合には相容れない、相反するようなプロジェクトを違うドナーが実施したりすることだってあります。そういうことは大切な援助資金の効率的な活用を妨げるだけでなく、受益国の発展を逆に妨げる要因となったりすることもあるので、このドナーコーディネーションはとても重要視されています。UNDPのMandateのなかにはこのドナーコーディネーションを促進するということも書かれており、その一環として当オフィスは毎月第2木曜日に各大使館や国際機関の所長クラスを集めて情報交換などをしたり、Donor Compendium等を作ったりして配布してます。そしてそういった、どのプロジェクトにもすっぽり入りきれないものはまた私に降りかかってきます。ただし、このドナーコーディネーションの手伝いをしているうちに他の援助機関やドナーがどのようなフィロソフィーの下にどのような活動をしているかがよく解るようになったと思います。
3) Resource Mobilization のための様々なプロジェクト・プロポーザルの作成。
 今日多くの国際機関が活動資金の縮小に悩んでますが、UNDPはまさにその困っている機関の先頭を突っ走っているところだと思います。ですので職員の仕事の中でこのResource mobilization(資金集め)は非常に重要な仕事と位置付けられています。UNDPの資金源は各国政府の「自発的」な献金なのですが、UNICEF等と比べるとその組織は大きいにもかかわらず影の薄い、つまり何をやっているか外からはなかなかわかりづらいというようなところが有ってその献金の額の減り具合も大きいそうです。その資金減をカバーするためにUNDPはプロジェクトのコストを直接ドナー国(日本など)やその機関(JICAなど)やときにはNGOとシェアーしたり、Global Environment Facilityというような基金にapplyしたりして、資金を集めてきました。その結果、こうしてResource Mobilizationを通して得た資金(non-core resources)がUNDPの資金(core resources)を最近では上回ってしまったという事態になっているそうです。それはそれで立派な事だと思いますけど。このresource mobilizationにもJPOは当然かりだされます。私の場合は、私が日本人であるというだけの理由で日本女性開発基金(Japan Women in Development Fund)や新たに設置予定(或はもう設置された?)のJapan Human Security Fund等に向けてのresource mobilizationを担当しています(私の専門は経済なのに!と思う事も多々有りますけど)。具体的にはそのファンドの趣旨に沿いながらモンゴルの開発目標をサポートするようなプロジェクトプロポーザルをモンゴル側と協議をしながら作り上げていくという事をします。その過程で、現地日本大使館の経済協力担当の人や、場合によってはJICA等とも連絡を取り合ったり意見を伺ったりもします。そういうことを通して日本のODAについてもいろいろ見えてきたりして、それはそれでまたいい勉強にもなっています。
4) モンゴルの社会・経済政策の動向をレポート。
 今までこれに関連したレポートとしてはNational Budget Analysis を定期的に作る事や、新しい経済関連の法案があがってきた時にはその分析レポートを書いたりします。
 汚職防止プロジェクト以外にやっている事といえば上記のようになると思います。他には、これは直接仕事には当たらないのですが、国連には普通の会社の労働組合に当たるものとしてStaff Association/Staff Councilというものが有ります。UNDPはUNFPAとUNOPSと共同でこのStaff Association/Staff Councilを組織しており、ニューヨークにその本部を置きながらcountry office レベルでその支部を置いて活動しています。このStaff Association/Staff Council のメンバーは、country office の場合、オフィスの全スタッフによる投票から選ばれるのですが、1999年度は私がその3人のモンゴル人同僚と共にメンバーの一員として選ればれました。人事に関する交渉をオフィスのシニア・マネジメントとしたりする時には必ずこのStaff Associationが窓口となりますし、福利厚生関係に関しても組合員で# る職員(international staffもlocal staffも含め)を代表して上層部と交渉します。その他には毎月一回の誕生パーティーを開いたりスタッフのピクニック大会を企画したりしますが、これはこれで結構楽しかったと思います。モンゴル人は遊び事、特にパーティー関係には命懸けで臨む習性が有るらしく、パーティーの前になるとその準備のためにほとんど仕事にならなかったりというような面も少しあったかもしれませんけど….
 以上、簡単に私が当オフィスでJPOとしてやっていることを書かせていただきました。次回は私の1年7ヶ月に及ぶJPO生活を通して国連、UNDPに関して思った事および今後の進路に関して書かせていただきたいと思います。
それではまた、 
 
進め!JPO(ウランバートル編)(5) 完結編
 今回は「完結編」ということで、勝手ながら私の1年7ヶ月におけるJPO生活を通して思った事及び今後の身の振り方を書かせていただきます。
1)JPO生活を通して思った事
 前にちょっと書いた事ですが、多くの国連機関の財政状況は年々厳しくなっています。開発の世界では、それに加えて機関同士のcompetition が激しくなってきていて、国連開発計画(UNDP)のように財政基盤が脆弱な組織はこのままでいると淘汰されるという時代に入っていることが実感できます。
 現実に各国政府のUNDPに対する contribution は明らかな下降傾向を示していますし、今までpoverty という分野はUNDPの専売特許的なところがあったのですが、資金力のより強い世界銀行やアジア開発銀行などもその活動の焦点をpoverty に移行しつつあったりして、ますますUNDPの役割や時には存在意義までもが疑問視されたりしています。そういう諸々の事象がUNDPに大改革を強いる事となったのですが、それはUNDPの活動のフォーカスを変えていくという事以上に、そこで働く人たちを変えるという事も意味しています。
 最近ニューヨークの本部から回ってくる情報には、この改革にまつわるものが多いのですが、UNDP自身の、その過去に対する反省として最も強く言っているものにUNDPが余りにも場当たり的に、そしておおらかすぎるほどおおらかにお金をばらまきすぎたというものがあるようです。つまり途上国などで適当なプロジェクトを組んでそこに資金を投入するだけで、そのプロジェクトが実際にどういう成果をもたらしたのかとか投入した資金に見合うだけの成果は上げられたのかとか、そういったたぐいの評価が軽視されていて、結果的に資金の友好的な活用が全くなされていなかった、そしてその事が更にドナー国のUNDP離れを促したというようなロジックです。
 だから今UNDPで流行り言葉としていわれているのが"result orientation"です。民間企業で働いた事のある人なら"result orientation"などアタリマエすぎるほどアタリマエな事なのですが、この機関ではそのアタリマエなことにようやく最近気付いたというような状況なのです。
 このような、今まではとにかくdisbursement や inputs などに注目しながらoutput (結果)を軽視するという環境は、組織の制度もそれに補完的なものを生み、そして育ててきました。
 ですから組織の制度を改革するというのはもちろん必要な事の一つで、それはそれでエネルギーと痛みを伴うものなのですが、それよりも大きなエネルギーと痛みを必要とするものにこの組織で働くhuman resource の「改革」があり、そのことに現在のUNDPのトップは気付いており、本気で取り組もうという姿勢を示しています。
 UNDPの人材の最大の欠点は専門性の無さ或は低さだと思います。この事は私が勝手に思っているだけではなく、どうやら自他共に暗黙的に認めていることのようです。もちろんこれは on average ということであって、その分野では世界でも名の通ったエキスパートもいるにはいると思います。しかし実際にUNDP(職員)の今までの仕事の仕方では、ほとんどの専門性を要する仕事は外部のコンサルタント等に頼むので専門性が必要でなく、むしろUNDPの事務手続き的な事やルール等にさえ明るければやっていけたのだと思います。人事や財務というoperations 系の部署ではそれは当然でしょうけれども、驚く事にプロジェクトなどを見ているprogramme系の部署でもそういう人が大半を占めているのです。この事実は、例えば世銀などの組織と大きく違う所だと思います。実際、良く言われてることですが、UNDP職員の名詞にはprogramme officer とかAssistant Resident Representative とか coordinator とかいうような実際に何をやっているのかわからないタイトルがつく事がほとんどですが、他の機関ではpension reform adisor とかbanking specialist とかいうような肩書きだったりします。そういうところにもその組織の仕事の仕方などが現れているのだと思います。
 上記の事を鑑みてUNDPはそのスタッフの専門性を高める事を大きな目標としています。それには現職の職員を鍛えるというのと、新しい人間を入れるという二つのやり方が有り、その両方をやっていくようです。現職の職員の再教育は、効果のほどは分かりませんが、大変なのは新しい人間を入れるほうです。財政的にも余裕のかけらのない組織のため、現職の職員の数をとり# えず減らさないといけないわけで、本部では手始めに25%の人員削減をするようです。
 余談ですが、UNDPのカントリーオフィスで働いていると、本当にUNDPが何とかまわっていっているのはカントリーオフィスで働くナショナル・スタッフ(現地職員)のおかげだと思います。
 私は以前の「進めJPO」で汚職防止プロジェクトに携わっていると書きましたが、このような事が実現できたのもここの政府と強いつながりを持ったモンゴル人の同僚(この同僚は昔国会議員でも有り、どこかの省の副大臣でもアった人です)がいたからです。それに、良くありがちな外人スタッフのナショナル・コンテキストを無視したような的外れ的なアドバイスを牽制したりする事もできます。
 本当に政治的なプロジェクトになると、カウンターパートからの信頼が大切ですが、そういうところでは「外人スタッフ」だけでは限界が有ります。UNDPがJICA等と大きく違う点はそういうところだと思います。
 以上のような環境の中でJPOとして働いていて思った事はたくさん有るのですが、切実に思ったのはUNDPがまさに浮くか沈むかというかなり険しい状況に有るということです。現在のUNDPのadministrator は或る程度本気で組織を変えていく気でいるようですが、私を含め多くの人間が「これがUNDPの存続の最後のチャンスだろう」とまで見ています。(つまりこの改革に失敗したらUNDPはタイタニックのように勢いよく沈みかねないという事です)人の首を切ったりするのは本当に難しい事ですし、政治的にUNDPのポストを得た人などもいたりして、改革がスムーズに行くとは余り思えないので、そういった意味でもUNDPの未来像に対して不安を抱くのは中にいる、或は中にいたことの有る人間なら当然の事だと思います。
 他の機関がどういう状況にあるのかは知りませんが、皆さんの中で将来開発の世界で働きたい、或はUNDPで働きたいと思っている方がいらっしゃれば、少なくとも現在はそういう状況だという事をしっかりと知っておく必要があると思います(なかなかそういう情報は得難いのかもしれないですけど)。
 一つだけ付け加えさせていただきますが、個人的にはUNDPの開発へのアプローチには賛成です。世銀のようにエゴイスティックでもないですし、(今でこそそういう事は減りましたが)ネオ・クラシカル経済学の教科書をそのまま当てはめちゃったような政策アドバイスを平気で押し付けたりするわけでもありません。経済をずっと勉強してきたものが言うのも変ですが、そういったいみではUNDPの開発へのフィロソフィーの方がよっぽどバランスが取れていると思います。
2)今後の身の振り方について
開発の世界でこれから生きていこうと思う場合に最も必要なものは実用的な専門性であって、或る組織に特化されたような手続きの方法やルールに対する知識ではないと思います。このことはアタリマエに聞こえるでしょうが、少なくとも今までのUNDPはそうではなかったのです(だから沈みかけているのですけど)。
 ちなみに、上にも書きましたが、もちろんどの組織でもoperations サイドではルールや手続きが大事な所も多々あり、私の言う「開発の世界」はこの部分を含んでいません(念のため)。
 上記の事を考え、私はもう一回勉強する事にしました。実は今大学院へ進学が決まっていて、今月の中旬にもここを離れる予定です。大学院に行けば即専門性が上がるというわけではないですが、少し自分で今まで考えた事などをまとめたいと思っています。
 将来は再び開発の現場で働きたいと思っています。そういう意味でも「急がば回れ」式に大学院へ戻る事にしました。これはどこかでかいた事だと思いますが自分のやりたい事だけはしっかりともっていながら、そこへたどるまでのプロセスはフレキシブルに考えていった方がいいと思っています。JPOという制度も「目標」ではなく、どこかへ進むための「手段」或は「ステップ」でアルはずです。そしてそういう意味でJPOは私にとって大変良い「ステップ」だったと思います。
 いろいろ勝手な事を書きましたが、以上で私からの「進め!JPO (ウランバートル編)」を通しての情報発信は終わりとさせていただきます。
 これから国際機関を目指される皆様の何らかの役に立てたなら幸いです。
 御健闘を祈ります!

・・・・・・・・・・・・・・・・その後・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『吹田からの手紙 2008』
■ごあいさつ
こんにちは。1998-2000にUNDP(UNOPS)モンゴルでJPOをしていた後藤健太と申します。思い起こせばJPOとしてモンゴルに赴任したのが今から10年も前になります。当時私は20代最後の年を満喫しており、またその時のJPO生活の様子は恥ずかしながら『進め!JPO(ウランバートル編)』で報告させていただきました。いつまでも20代の若者だと思っていたのに、いつの間にか40まで秒読み段階に入っているという状況には驚くばかりです(ただし精神面では相変わらず10代程度)。
今回は西村由実子さんと青柳有紀さん同様、二井矢さんからのご依頼に基づいて私のポストJPO/AEでたどった道のりをまとめさせていただきたいと思います。皆様のキャリア形成に何らかの参考となれば幸いです。
タイトルは青柳さんのものを勝手に文字って(パクって)『吹田からの手紙 2008』とさせていただきました。なぜ吹田かというと、今僕はこの文章を大阪の吹田市で書いているからです(まったくドラマティックでなくてすみません)。
■ウランバートルから京都
『進め!JPO(ウランバートル編)』にも書いたように、私は1998年8月にJPOとしてモンゴルのウランバートルに赴任しましたが、原則2年というJPO任期を若干早めに切り上げる形で2000年の3月に帰国しました。帰国後の4月からは京都大学の大学院アジア・アフリカ地域研究研究科の博士課程に進学し、主に同大学の東南アジア研究センター(改組のため現在は東南アジア研究所)の協力講座所属となりました。
大学院では研究対象地域をベトナムにしましたが、その理由は90年代の初頭に勤務していた会社でベトナムとの取引が始まり、それが急増していく様を横で見ていて激しい興味を抱いたことに起因します。他にもベトナムがJPOでの任地モンゴルと同じように市場経済化プロセスの真只中にあったこと、世界でも中国に次いで高い成長を誇っていたこと、などが挙げられます。そして極めつけ(真の理由)はなんといってもベトナム料理がとてもおいしいということです。
当大学院に進学した主な理由は、開発の現場において、現地のさまざまな制度的文脈をどのようにして政策に取り込むべきなのか、という問題意識に対する答えが探求できそうだったから、ということになると思います。地域の特殊性、とはよく言いますが、それが経済発展や開発に、具体的にどういう形で反映されるのか、あるいは政策に反映させるべきなのか、というのが私の大学院での大きな研究関心でした。
■ベトナムとJICA専門家
ベトナムに関しては、当時その主要な輸出工業部門だった繊維・縫製産業の研究をすることにしましたが、とにかく産業に関するミクロデータがベトナムではほとんどない、もしくは入手できないという状況に、すぐに行き詰まりました。結局フィールド・ワークを中心に、自分で一次データを取ってくる手段に出るしかないのですが、当時の繊維製品輸出の最大の担い手であった国有企業へのアクセスは困難を極めました。
そんな折、縁あって政策研究大学院大学の大野健一教授に誘っていただき、繊維・縫製産業にJICA専門家としてベトナムと関わることができました(このときの活動の詳細と成果は、大野健一・川端望(編)『ベトナムの工業化戦略』日本評論社、2003年.にまとめてありますので、興味のある方はそちらをご参照ください)。これはスタートしたばかりの私のベトナム研究において最大の転機だったと思います。ベトナムの現地企業への調査ができたことでその後の研究を軌道に乗せることができたことに加え、JICAをはじめ日本の開発スキームに参加することで日本の国際協力における比較優位について多くを考えさえられました。グローバリゼーションを前に、途上国がいかに世界経済との統合と産業高度化を進めていくかに関してはたくさんの課題がありますが、それらに対する具体的な提言をする能力の蓄積が日本にはある、ということを再発見する絶好の機会となりました。
そうこうしているうちに、研究自体は次第にインフォーマル経済にも手を出し始めたことから、調査地であるホーチミン市の主要卸市場の地面を這いつくばるような研究スタイルを確立していきました。研究は食中毒や帯状疱疹、スランプ等を含め幾度も深刻な暗礁に乗り上げることとなるのですが、なんとか成果を博士論文にまとめ、学位取得にこぎつけました。ウランバートルを離れてから5年の歳月が流れていましたが、私は今のキャリアを形成する上でこの経験はとても重要だったと思っています。
■再び国連へ(今度はILO)
博士論文のまとめの段階に入った2004年の初夏に何気なく国際機関人事センターのHPをみていると、厚生労働省拠出のスキームで国際労働機関(ILO)のアジア・太平洋地域のどこかの地域事務所(当時はバンコク、デリー、マニラのいずれか、とされていました)で1年間勤務するという内容の募集情報が載っていました。今の日本では一般的に大学の教育・研究職を得るのは難しく、家族を抱えて路頭に迷うのも問題だと思い、とりあえずそのプログラム(日本人テクニカルオフィサー・プログラム)に応募してみました。このプログラムはいわばILOの技術協力に関係のある特定分野での経験を持つ30~40歳代を対象としたミッド・キャリア向けJPO/AEプログラムのようなものでした。
応募したこともすっかり忘れたある日、ILO東京事務所から上記プログラムの面接通知が来ました。もともと国際労働基準を設定する機関としての色彩が強かったILOが、今のソマビア事務局長のもとで”Decent Work”というより包括的で、個人的見解から言わせてもらえれば開発色を強めたような活動戦略を策定し、その関連で経済関連(民間部門開発や中小企業発展など含む)ポストの増強をしている雰囲気が強かったような時期だったような気がします。そうしたなかで思いがけず日本人テクニカル・オフィサーとして採用していただけることとなり、勤務地としてはバンコクのアジア・太平洋地域総局の経済・社会分析ユニット (Economic and Social Analysis Unit)、肩書は開発経済専門官(Technical Officer in Development Economics)と決まりました。
ILOでの仕事は地域総局という部署の性格上、ジュネーブ本部の出先機関という色彩が強く、会議の設定などといった調整的な仕事が多かったのですが、大学院で研究していたトピックにも若干の関連があるような仕事もありました。たとえば、地域内の15の研究機関との共同研究プロジェクトの管理と運営も仕事の一つでしたが、そのプロジェクトでは拡大するグローバルな生産と流通体制の中で途上国はいかにすれば労働条件の劣化を防ぎつつ産業高度化を果たすことができるのか、などといったトピックを扱いました。また、インドや中国での企業サーベイを企画し、労務管理政策と競争力との関連を調べるような仕事もありました。ILOは私にとって二つ目の国連機関勤務となったわけですが、その経験を通じて、国連といっても機関によってずいぶん違うものだな、という感想を抱きました。ILOでの勤務経験は、仕事の幅を広げてくれましたし、私の現在の研究にも強い影響を及ぼしたと思っています。
ILOには2005年3月から1年間の予定で赴任しましたが、ILO/厚生労働省双方の協議の結果、当スキームでもう一年間の契約延長をすることができ、結局2007年の3月までバンコクで仕事をしていました。どこの国際機関でもそうかもしれませんが、その後の進路についてはプログラムのドナーの保障のもとでキャリアが展開するということは難しく、JPO/AE制度と同様、自分で空席を見つけて応募する必要がありました。私の場合、ILO在職中に日本の大学の空席公募への応募が実り、ILOとの2年目の契約が終了した時点で帰国し、大学勤務という運びになりました。
■今大学で
ILOの後に得た最初の大学職は、大分県別府市にある立命館アジア太平洋大学というところの准教授ポストでした。しかし様々な事情により、そこでの仕事は1年で終えることにし(別にスキャンダルを起こして追い出されたわけではありません)、今年の4月からは関西大学の経済学部で准教授として働いています。関大の経済学部は大阪・吹田市の千里山キャンパスにあるため、このお便りのタイトルも「吹田からの手紙2008」とさせていただきました。大学では経済発展論・開発経済学科目を担当しており、ベトナムを含むアジアの産業高度化と経済発展の問題について勉強を継続中です。また昨年は大学にいながら、ILOの二つの案件で北京とバンコクへ行く機会を得るなどしましたが、今後もこういう形で開発の現場と関わることができれば良いなと思っています。
■JPO・AEを振り返って
今改めて『進め!JPO(ウランバートル編)』を読み返してみると、それがUNDP大改革の最中という時代だったことがよくわかります。その後いろいろな経緯から、私の数年後にUNDPモンゴルでJPOをされた西郡俊哉氏と親しくなる機会がありました。私のUNDPでの経験もとても価値のあるものでしたが、それと比較すると彼の経験はもっと前向きで明るく、より有意義なものだったようです。西郡氏はとてもダイナミックで優秀なので、これはひとえに彼と私の能力の差、というところに行き着くのかもしれません。しかし、それにしても彼の話を聞くにつれ、名実ともにUNDPが生まれ変わったのだな、と感慨深い思いがしております。西郡氏は現在、その才覚を認められ、UNDP東京事務所でバリバリと活躍しています。
いろいろなJPO/AE経験者と話す機会が増えるにつれて、やはりその一人一人の経験自体は非常に多様であり、どのような時期・場所で、どのような人たちと仕事をしたか、という点が各人のJPO/AE経験に対する評価を大きく左右するようです。しかしながら場所や仕事は変わっても、思いはJPO/AE時代の現場にある、というのが多くの経験者の共通点なのではないでしょうか。
今まで散々好き勝手に生きてきましたが、今後しばらくは大阪の吹田に腰を据えて開発問題の勉強をさらにすすめていきたいと考えています。私もまだまだ発展途上にあるので、これからもがんばっていきたいと思います。今後とも何かとよろしくお願いします。
(以上)

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