2013年6月26日水曜日

「JPO受験からジュネーブ派遣まで」(ITU・JPO 原実)

国際電気通信連合(ITU)・JPO 
原 実
「JPO受験からジュネーブ派遣まで」
99年3月~2000年3月ML連載記事

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JPO受験からジュネーブ派遣まで(1)
~~ JPO試験に応募 ~~
1999年3月21日
●JPO試験を知ったきっかけ
 NEC入社4年目の97年の秋、LAN製品の開発業務でほぼ毎月のように海外出張に出かけていたさなかのことでした。出張の間の帰国中にたまたま立ち寄った本屋で「国際協力就職ガイド98」という本が、私の目に飛び込んで来ました。学生時代から20カ国以上を渡り歩いてきたことがあり、また国内での国際交流のイベントにも何回か参加したこともあったため、自然な興味から本を手にし、購入しました。
 そこには、国連、JICA、NGO活動など、「国際協力」に関連する活躍の場が詳しく説明されていました。その中で、青年海外協力隊にはNECからの派遣者も多く、昔から興味を持っていたのですが、単身赴任が条件とのことで、すでに結婚して妻がいる私は協力隊の夢をあきらめ、「国際協力就職ガイド」は部屋の隅にしまってしまいました。
 何ヶ月か過ぎ、たまたま「ガイド」を広げたところ、国連で活躍する日本人の記事などに興味をもつようになり、さらに国連機関の中で働くためには、競争試験、ロスター登録、JPOなどの方法があることを知りました。2年間国際機関での経験を積むことのできるJPOの制度に興味をもち、外務省から要綱を取り寄せることにしました。
 NECでのエンジニアとしての業務は、技術力を高めることができ、さらに国際的に活躍する場が存分にあるため、とても満足していました。しかし一企業の「ビジネス」に直結した仕事をするだけではなく、技術を「人の幸せ」や「平和」のために生かすという別の視点をもって、国際機関でチャレンジしてみるのは、今後の人生にプラスになるに違いないと考えるようになりました。また、世界中から異なった経歴を持った優秀な人が集まる環境というものに非常に大きな魅力を感じ、妻の応援も受けて、受験することを決意しました。
●いざ応募!
 応募書類は和文・英文の2種類に記入する必要があり、英文は国連のPersonal History Formがそのまま使われます。初めてPHフォームを見た時は、はっきり言って面食らいました。日本の会社へ提出する履歴書や自己PR用紙とはまったく違い、一筋縄ではいかないと判断した私は、1日会社を休んで記入しました。
 会社の業務でドイツへの出張に行く事になり、出張前日になんとか書類を仕上げ、郵送は妻に頼んでドイツへ飛びました。3週間後にドイツから帰国したその日から今度はアメリカへ1週間の出張に行く事になり、JPOのことなど思い出す暇もないほど忙しい日々でした。アメリカから無事帰国してみると、外務省から要件審査合格の通知が届いており、ホッと一息ついたのでした。これから続く、JPO試験の長い道のりのことなどまだ考えもせず。。。
つづく

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JPO受験からジュネーブ派遣まで(2)
~~ 語学 & 面接試験 ~~
1999年3月31日
●英字新聞とCNNで過ごす毎日
 普段の仕事では、海外出張中・国内勤務中問わず、英語をよく使っていたので、英語力は年々上がっているという実感はありましたが、いわゆる「英語の勉強」からは2~3年遠ざかっていました。典型的な外圧駆動型の私は、JPOの語学試験を機会に英語のトレーニングを再開することにしました。また、語学試験をパスするだけではなくて、JPOとして国際機関で働いていく上でもっと英語力を伸ばす必要があると思い、英語の体力をつけようと決心しました。
 98年5月の要件審査合格後、自宅の購読紙をそれまでの日経からDaily Yomiuriにし、帰宅後にTVでみるニュースはパーフェクTVのCNNにしました。あまり無理すると長続きしないかなとも思いましたが、思ったより楽しく続けられ、今では生活の一部になっています。
●英語筆記試験(国連英検一次試験)
 国内受験の語学試験は、国連英検A級が準用されます。国連英検では課題テキスト「TODAY'S GUIDE TO THE UNITED NATIONS」が指定されており、筆記試験では国連に関する問題が必ず出題されるとのことでしたので、早い時期に読んでみました。これは語学試験対策というだけでなく、国連システム全体の役割を簡潔に理解する上で大変役に立ちました。
 7月の筆記試験本番では、国連に関する問題は、UNDP、UNV(UNISTAR)、安保理、 UNHCRなどが出題され、課題テキストの勉強が役に立ち、全問回答できました。しかし、それ以外の語彙、長文問題(国際問題やダイアナ基金など時事問題)や、小論文の課題「Greenhouse Gas Emissions and Global Warming」など、とにかく問題のボリュームが多く、試験が終わった時にはぐったりしました。小論文に関しては、京都会議の記憶がまだ新鮮だったので、関連したエッセイを書きました。
 7月末に、筆記試験の合格発表と口述試験の案内が送られてきたときは、心から喜びました。私の勝手な予想では、JPO試験の過程の中で自分にとっての最大の難関は語学の筆記だと思っていたため、合格を知ると「これはいけるかもしれない」と、さらにやる気が沸きました。
●語学口述試験(国連英検二次試験)
 一次、二次を通じて語学力以上に心配だったことに、試験の日程の問題がありました。ほぼ毎月の海外出張と、試験の週末とが重なる可能性は十分あり得たのですが、本当に運良く一次、二次とも無事にに受験することができました。
 二次試験(8月)では、受験会場に集まった受験生の中で面接の順番がなぜか一番最初でした。非常にリラックスした雰囲気の中、最近のニュースの話題等について質問されました。私はCNNで普段得ていた情報から、ケニアとタンザニアの米国大使館爆破テロや、スーダンへの緊急食料援助の話題、宮沢大蔵大臣就任への期待などを説明しました。また、青年海外協力隊などの国際ボランティアや、国連に関連する話題も挙がり、非常に話が弾みました。試験を受けているということを忘れるほど、楽しく時間が過ぎ、成功の感触を得ました。
 口述試験は、単に英語の会話力を問われるだけでなく、短い時間ながら、様々な話題に興味を持ち適応できるかどうかも問われているということが、試験を受けていて伝わってきました。英字新聞やCNNは、時事問題の知識を適切な英語で表現するのに、確実に役だったのではないかと思います。
 9月上旬に、語学審査合格の通知が国際機関人事センターから送られて来ました。これで、晴れて2ヶ月に及ぶ語学試験が無事終わりました。この頃になると、自分自身がJPOとして国際機関に行くかも知れないと思えるようになり、語学試験の疲れも苦になりませんでした。しかも後は外務省での人物審査を残すのみで、「日本語面接で、そう簡単に不合格にはならないだろう」と楽観的に考えていました。(後で聞いた話では、これは大きな誤解だということがわかりましたが。)
●面接試験 -霞ヶ関にて-
 面接試験は10月の平日に行われました。私は会社を休んで霞ヶ関へ向かいました。集合時間より少し早めに霞ヶ関に到着したため、外務省の近くにある政府刊行物サービスセンターで時間をつぶしていると、「国連職員への道(世界の動き社)」という本を見つけました。国連競争試験やJPO試験のことが詳しく解説されていたため、ちょっと中身を覗いてみました。すると、競争試験とJPO試験の合格者の殆どが海外留学経験ありという統計が載っていました。私は国内の大学で勉強し、留学というとドイツの大学院で2ヶ月間研究活動を行っただけだったので、「今日面接を受ける人達もみな長期留学経験者なのだろうか?」と、急に不安になってしまいました。しかし、面接直前に余分なことばかり考えていても仕方がないので、読むのをやめ、店を出ました。(その本はしっかり購入しましたが。)
 時間になり面接室に呼ばれると、3名の面接官が座っていました。名前を告げ、椅子に座ったときには、先ほどの「不安な出来事」のことは忘れ、落ち着いていました。(と、自分では思っていたのですが、面接官から見ると緊張していたかもしれません。)
 3名の面接官のうち2名の方は、その時なぜか見覚えがありました。面接試験の1週間前に、日比谷公園で国際協力フェスティバルに遊びに行った時、国際機関人事センターのブースにいた方だということがすぐに判りました。一方的に知っているだけでしたがとてもホッとしました。 さて、面接は延々40分間も行われました。普通の会社の入社試験では通常10~15分程度なので、40分の面接というのはとてもボリュームがありました。面接の質問内容を全て覚えている訳ではありませんが、だいたい以下のようなものだったと思います。(受験者のバックグラウンドによって質問内容はかなり違うと思いますが)
JPOを受験するに至った理由
今の仕事の内容
現在の仕事を離れてまで国際機関を志望する理由
希望する職種
英語を使った仕事はできるか
途上国勤務は問題ないか
国際機関で自分の能力がどのように生かせるか
マネージメントはできるか
会議の折衝やプレゼンテーションはできるか
日本人のアイデンティティについて
環境問題について
「国際人」とは
 質問の一つ一つがとても突っ込んだ内容でした。特に時間をかけたのは、今の仕事の内容に関しての説明と、国際機関で自分の能力がどのように生かせるか、という話題だったと記憶しています。単なる質問&回答というやりとりだけでなく、リラックスした雰囲気の中でいろいろとお話をさせて頂きました。面接の最後に、国連競争試験に併願することと、フランス語を身につけることを薦められました。また、合格したとしてもすぐには会社を辞めないようにというアドバイスを受けました。
●面接を振り返ってみて
 JPOの面接は、単なる形式的な面談ではなく、文字通り面接「試験」として、しっかり選考しているということがよく理解できました。面接では以下のような要件を全て審査していたと感じました。
専門能力 - 大学や会社における専門分野での経歴
業務遂行能力 - マネジメント、折衝、プレゼン、レポート作成
海外適性 - 途上国、外国語、異文化環境への適性
意欲 - 国際問題に対する姿勢、志望動機の妥当性
人間性 - 積極性、適応力など全般
 一つ一つは審査内容としてはごく当たり前のことのように思いますが、とにかく40分もある面接ですから、受験者のそれぞれの要件を審査するには十分な内容でした。専門分野における技術面接ではありませんので、一夜漬けの対策ではどうにかなるものではないと思われます。
 このボリュームたっぷりの面接が終わった私は、「やることは、全てやった」という深い安堵感を感じました。と同時に、この後の長い長い結果待ちの日々が始まったのでした。
つづく

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JPO受験からジュネーブ派遣まで(3)
~~ 国際機関就職情報フォーラム ~~
1999年4月11日
 JPO試験の最終面接を終え、合格通知を待っている間に、世界銀行グループ主催の「国際機関就職情報フォーラム98」が開催されました。10月の国際協力フェスティバルの時に、国際機関関連のブースでたまたまフォーラムの案内パンフレットをもらって開催のことを知っていたため、今後の情報収集の役立つと思い参加することにしました。(JPO合格体験記とは直接関係ないのですが......)
●会場の熱気
 当日は、出版物からは得られない各機関の生の情報を、ゆっくりと時間をかけて聞こうと思って会場に入りました。予定開始時刻を少し過ぎたばかりだというのに、狭い会場には人、人、人.......。驚きました。国際機関に興味を持っている人がそんなにいるとは予想していませんでした。準備された会場の狭さと、各ブースの担当者の人数からすると、主催者の方でも、その当日の入場者数は予想していなかったのでしょう。各ブースでゆっくりお話を伺うなどというのはほとんど不可能だったので、ターゲットを絞って、いくつかの国際機関で採用状況や今後求められる専門分野などを質問したり、後は資料集めをしたりしました。順番待ちの長い列や通路の混雑で、半分以上の機関のブースには近づくことすらできませんでした。
 会場に集まった人は、学生と思われる人が一番多かったようで、それ以外にも既に国際機関への応募を具体的に検討していてCVを持参している人や、日本以外の国籍の人など多岐にわたっていました。質問のやりとりには時々英語も聞こえてきました。学生の多くは、国際機関の採用方法の基本的な知識を持っていない人が多く、ロスター登録、YPP、JPOなどのしくみを熱心に聞いているようでした。
●セミナー会場にて
 別室のセミナーの会場も、各セッション軒並み大混雑で、会場の隅までびっしり立ち見の人垣ができました。会場に入れなくてあきらめた人もいたようです。そんな中、何とか会場に入り込み、WFP、UNDP、国際機関人事センターのセミナーに参加しました。
 WFPのセッションでは、職員の契約形態の話(期間契約、恒久契約、ローカルスタッフなど)や、WFPの魅力などのお話を聞きました。「JPO」がWFP正規職員への最短で現実的な方法だという話があり、みんなその説明を熱心にメモしていました。
 UNDPのセッションでは、駐日代表の椿さんが、ご自身の体験談を中心にUNDPのことをお話頂きました。UNICEFなどの他の機関と比べ、UNDPが国内での一般の知名度が低いが、JPO合格者の中のUNDP希望者は多いというお話や、親善大使の紺野美紗子さんについてや、UNDPが進めている「人間開発」という考え方について興味深い説明がありました。
 国際機関人事センターのセッションは、国際機関への応募方法など、具体的な話が聞けるとあって、混雑を極めました。(講師はMLの皆さんも良くご存知の二井矢さんです!)競争試験やJPO試験(AE試験)の概要、JPO経験者の正規職員への「残留率」の話、国際機関に求められる人物像・資格要件など、じっくり聞かせていただきました。
●感想
 イベントに参加してみて、私と同じように国際機関に興味を持っている人が、世の中にはこんなに多いものかと初めて知りました。またどの機関も結局内部で働くためにはJPOか競争試験が現実的であるが、それ以外にもYPPの制度があることは、このイベントの中で初めて具体的に知りました。(ただしJPO以上に競争が激烈のようですが。)
 国際機関側の方が共通しておっしゃっていたことですが、どのポストに応募する場合も、かなり高度な専門知識と経験が必要であり、日本の企業の新卒採用のようなシステムとは全くことなる世界であることを、再確認させられました。本などを読んで知っていたことですが、やはり生の情報というのは説得力が違います。
 ところでこのイベントには、私と同じ「JPO同期」がたくさんいたということを後から聞きました。きっと1ヶ月後に控えた合格結果通知を待ち焦がれ、みんな不安な時期だったに違いありません。
つづく

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JPO受験からジュネーブ派遣まで(4)
~~ 待ちに待った合格通知 ~~
1999年4月16日
●合格通知
 12月中旬のある日、ついに、JPO試験の合格通知が自宅に届きました。要件審査合格、語学1次合格、語学2次合格と数えると、これは4通目の合格通知になりますが、これこそが、4月に応募書類を送付してから8ヶ月越しの試験の最終結果となりました。その日はJPO合格を祝い、妻と二人で家でワインを飲んだのを覚えています。
●長かった試験期間
 振り返ってみると、8ヶ月間というのは本当に長かったと思います。会社での仕事は製品開発プロジェクトのため、常に1年~2年先の製品リリース計画や新プロジェクトの企画などの話題が頻繁に話し合われていました。その中で、自分が1年後には今の職場からはなれる可能性があることを考え、いつも、JPO合格と不合格の両方の場合を想定する必要がありました。JPO候補に選ばれるかどうかというのは自分の人生設計に大きく影響を与えることは間違いありません。
 もし、不合格だったら......きっとまた次の機会のJPO試験に応募していたと思いますが、それは考えただけでも、とてもエネルギーのいることです。実際何度もチャレンジしている方がたくさんいるようなので、初めての受験で合格した私は、本当に恵まれていると思いました。なかなか得られないチャンスを有意義なものにしなければ、という新たな決意をし、長かった我が家のJPO試験「騒ぎ」は幕を閉じました。
●なぜ合格できたか?
 98年度のJPO試験は、応募者823名に対して合格者55名とのこと。これだけ見ると、自分が合格できたのが奇跡的に思えてならないのですが、敢えて合格の要因を分析してみました。
 合格者のほとんどが海外の大学院出身者であると思われるため、英語力に関しては、国内で学位を取った私にあまり競争力があったとは言えません。とすると、それを補う要素があったことになりますが、私は学部と大学院で電子工学を専攻し、修士号取得後はメーカーに就職して5年間専門分野での経験を積んでいたことが大きいと思います。また、仕事を通じて、国際的な経験を十分に積んでいたため、留学経験等の不足分は補えたのではないかと考えています。
 ところで、語学審査を通過し、外務省の最終面接に呼ばれるのは、150名もいるそうです。人物審査で、候補者を3分の1に絞ることから考えても、やはり語学力だけではない「何か」が必要だということがわかります。この「何か」は人それぞれ違うと思いますが、私は自分の専門性を大切にしていきたいと思います。
つづく

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JPO受験からジュネーブ派遣まで(5)
~~ 派遣機関がITUに決定 ~~
1999年4月25日
●派遣先決定通知
 合格通知から1ヶ月後の1月中旬、外務省国際機関人事センターから「AE合格者の推薦先国際機関の決定について」という通知が届きました。機関名の欄にITUと書いてあり、ちょっと驚きました。というのは、JPOとしてITUへ派遣された人の話を聞いたことがなかったためです。選考試験の募集要項には「派遣先機関は、UNDP、UNEP、UNHCR、WFP、・・・等です。」と、派遣実績の多い機関名が書いてあるだけで、ITUは「等」の中に含まれていたようです。
 私は、受験期間中を通して、ITUが一番専門分野に近い機関であることを良く知っていながら、JPOとしての赴任機関として考えたことが一度もなかったのです。JPOといえばフィールド、と思っていましたので、これには少々驚きました。と同時に、ITUに行かせてもらえれば、これまでの経歴を十分生かせ、かつグローバルな問題を扱うことができるという点で、この思いがけないITUとの「出会い」を喜んで受け入れることにしました。
●ITUの活動内容と私の専門分野の関連性
(1)ITUの活動内容
 国際電気通信連合(ITU)は、1865年に創設されて以来130年以上の歴史を持つ機関で、現在は国連の専門機関の一つになっています。機関の目的は、「電気通信の改善と合理的利用のため国際協力を増進し、電気通信業務の能率増進、利用増大と普及のため、技術的手段の発達と能率的運用を促進する」とされています。具体的には、

電気通信(電話、LAN、放送など)の国際標準勧告方式の作成
無線通信(衛星通信、衛星放送、携帯電話など)のための国際的な周波数の割り当てとレギュレーションの策定
電気通信技術の途上国への普及の促進
などが主な活動になっています。
 ところで、99年2月に、郵政省出身の内海善雄氏がITUの事務総局長(Secretary General)に就任されたといううれしいニュースがあります。99年4月現在、内海SGを含め邦人職員は6名しかいないとのことで、邦人JPOは私一人だけになる予定です。
(2)標準化機関での活動経験
 NECのような通信機器関連の業界にいると、国際標準化機関としてのITUは、国連の付属機関や専門機関のなかでもっとも知名度が高い機関です。(私の同僚のエンジニア達は皆、WHOやUNICEFなどの一般的に知名度の高い機関よりも、ITUの方を良く知っています。)私が担当していた製品開発では、ITUを始めとする標準化機関との関わりが非常に強かったため、これからJPOとして勤務する上で、大いに役立つと思います。
 大学院時代の研究活動では、ITUから発行されている画像圧縮技術に関する国際標準勧告をよく読んでいました。研究段階で開発した画像通信の試作システムの一部に標準勧告の方式を使用したため、ITU勧告書や、穴があくほど読んだものでした。
 会社に入ると、最初に配属された部署では、ビデオ会議システムのOEM製品化と、応用システムの開発をしましたが、この時のベースになったのもITUのビデオ会議方式やデータ会議方式の勧告でした。勧告書に合わせ、OEM製造元の製品マニュアルやOEM契約書なども読む機会があり、専門用語に慣れることができました。
 部署が代わり、LAN関連の製品開発を担当するようになると、ATM Forumの標準化会合に参加し、最新技術動向の調査等を行いました。私が参加したのは、シカゴ、モントリオール、シンガポール、ベルリンの技術会合で、この活動を通じて始めて、国際標準が各国企業の利害のぶつかり合いの中で出来上がっている場面を目の当りにしました。参加者は各国の通信事業者やハイテクメーカーの技術者が中心で、日米欧の企業が9割以上を占めていました。ところが、それぞれの企業に所属する技術者の国籍はというと、日米欧の他に、インド、イスラエル、台湾など第2第3のシリコンバレーを目指す地域の出身者が多数を占めていました。英語が母国語でない人達との国際会議でのやりとりを経験することができました。国連機関の国際会議もきっとこの応用ではないかと想像しています。
 これら様々な特徴を持った標準化機関との関わりを通じて、学生時代の研究や、会社に入ってからの業務が幅のあるものになったと思います。そしてJPOとしてITUへ赴任することになり、偶然これらの経験が生きてくることになったわけです。
●PHフォームの送付
 さて、推薦先機関がITUに決まると、通知から1週間以内にITU専用のPHフォームに記入し、人事センターへ提出する必要があったため、JPO試験の応募時にUN用PHフォームに記入したものを、大急ぎで書き写しました。津田国際研修センターでPHフォームの添削カウンセリングを受けたところ、技術系の専門機関へ出すのだから、技術系の経歴を詳しく書くよう、また、学生時代の企業実習の経験も職歴に入れるようにアドバイスを受けました。
 ITUのPHフォームは、UNのものと比べると、職歴の記述欄がかなり大きくとられています。そこで、社内での小さな異動を2つの職歴ととらえ、職歴欄2つ分使用してそれぞれの製品の技術分野と私の職務内容を詳細に記入しました。また、職務内容と国際標準化機関との関連性や、標準化会議参加経験等を強調して記入したり、学生時代に経験した、東芝の総合研究所での無線関連の実習(インターン)を職歴欄に追加したりと、ITU向けに大幅なリバイズをして、期限ぎりぎりで提出しました。
 このPHフォームが人事センターからITUに送付されると、あとは内定を待つばかり。。。
つづく

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JPO受験からジュネーブ派遣まで(6)
~~ ポストの受諾/周囲の反応 ~~
1999年5月25日
●職務記述書
 ITUへPHフォームを提出してから約2ヶ月が過ぎ、3月中旬になると、外務省国際機関人事センターのJPO担当官から会社宛に1通のE-mailが届きました。ITU本部よりポストの提示があったため、至急FAXを送りたい、という内容でした。すぐに人事センターに電話をし、会社宛にFAXでJob Description(職務記述書)を送ってもらいました。まだITUの件を知らない同僚が多かったため、皆が不思議なFAXを目にして騒ぎにならないように、ハラハラしながらFAXの前でじっと受信を待っていました。届いたFAXはたったの2枚。随分簡単な書類だなぁ、という印象でした。そこに記載されていたポストはジュネーブ本部のInformation Services Departmentのものでした。
 ITUにおけるネットワーク管理の業務は、ITU自身が作成している国際標準技術を他のどの機関や企業よりも早く職場に導入できるという点でやりがいがあると同時に、ITUが推進している「TIES」というシステムにも興味を持っていたため、迷うことなくポストの受諾の連絡を行いました。なお、人事センターの方からは、このポストでは私の専門性から考えると物足りないのではないか、と心配して頂きましたが、TIESのシステムはITUが最前線で行っている国際標準化や加盟国への情報提供のツールとして使われていて、ITUのオペレーションの幅広い側面に関われる点で、良いポストではないかと自分なりに評価しました。

●家族・友人への報告
 JPO受験のことは、受験期間中を通じて、妻以外には誰にも打ち明けていませんでした。何しろ合格できる保証はどこにもなかった訳ですから、皆への報告は合格後までお預けということにしていました。
 99年1月に派遣機関がITUに決まってからは、機関の活動内容や、赴任国について、ある程度人に話ができるレベルになったため、徐々に周りの人に事情を打ち明けてみました。
家族の反応
 私の両親と妻の両親に、国際機関で働く予定だということを伝えると、最初はみんな驚きましたが、予想していたよりすんなりと理解してもらえました。
 母親はまず両方とも安全面を心配しました。衛生面や治安は大丈夫か、子供は海外で生むのかと。最初は途上国での生活をイメージしていた私達夫婦にとって、ジュネーブというのはこの上なく安全な場所ですが、あまり海外に行ったことのない親の世代にとっては、「外国」というのは遠い存在のようです。
 それとは対照的に、両家の父親達は、国連や国際機関というものについての説明に興味を持ちました。今の職があるのになぜ国際機関なのか、そこで自分に何ができるのか、何をしたいのか、など説明すると、私の熱い思いが伝わり、喜んでくれたようです。
 それにしても、私と妻のそれぞれの両親が、父親は父親らしく、母親は母親らしく全く同じように受け止めていたので、これが典型的な反応なのかなぁとちょっと面白かったです。
友人の反応
 私のことを良く知っている友人達なので、私がなぜ国際機関を目指すのかは、説明しなくても皆理解してくれました。誰一人、私の考えに否定的な友人はおらず、不安定な契約社会へ飛び出すことよりも、前向きな気持ちを純粋に応援してくれました。皆の暖かい言葉を聞くと、やはりチャレンジして良かったと改めて感じました。
 ところで、友人にJPOの件を説明する際、いつも驚かれることがあります。それは、合格から半年近く経っても「赴任日」が決まっていないということ。「99年度中」ということしか分かっていないこと自体、日本の企業の一括採用の常識からは、かなりかけ離れています。また、JPO候補のほとんどは、5月になってもまだ赴任国も決まっていないということを説明すると、2度驚きます。最近、人に会うと必ず聞かれる「いつ出発するんですか?」という質問に答えられる日は一体いつ?

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JPO受験からジュネーブ派遣まで(7)
~~ インドへ派遣?? ~~
1999年7月6日
 インドへ派遣されることになりました。JPOの配属先が変更になったかと思われるかもしれませんが、インド赴任の後は予定通りジュネーブへ行きますので、連載はまだ継続されます。ご安心を。
●ITUフィールド専門家
 ITU本部のJPOの職務記述書を受け取ってからというもの、なかなかジュネーブ赴任の手続きが進まないため、やや焦りを感じ始めた頃のことでした。たまたまITUのホームページで、ITUフィールド専門家の募集公告を目にしました。フィールド専門家は、通常の正規職員の募集とは別に、短期契約で途上国での技術協力をする専門家を世界中から募り、派遣する制度で、UNV、UNISTAR、JICA専門家などのITU版と考えると分かりやすいと思います。
 99年春の時点で募集があったのは、ブータンとインドのミッション合わせて約10ポストで、その中でインドのガジャバードという町のBroadband ISDNの2ヶ月のポストに興味を持ちました。そこで、
得意な専門分野であり、技術協力に貢献できること
ITU本部へのJPOとしての赴任までに時間的余裕があること
ITUのフィールド活動の体験ができること
JPO赴任前にITUの活動への理解を深めることができること
などの理由から、外務省の方からの勧めもあり、急遽応募してみることにしました。
●フィールド専門家ポストへの応募
 正規職員ポストの選考方法と違い、フィールド専門家は、ITU本部と受け入れ国政府の両方で、2段階の選考が行われます。5月上旬に応募書類を作成し、本部へ送付しました。応募に当たっては外務省の方に全面的に協力して頂き、非常にスムーズに手続きが行われました。5月下旬にはもう本部での選考が終わり、何名かの候補者の書類がインド政府へ送付済みである連絡が来ました。そして6月上旬にはインド政府での選考が終了し最終候補者となった旨の連絡を受けました。この間、実に1ヶ月というスピード手続きで話が進んだわけですが、JPOの手続きが手間取っていることを考えると、信じられない早さです。
 ITUとの連絡のやりとりにはEメールを用いました。採用担当者はEメールをこまめに読んでくれるため、1日に何度もやり取りすることができ、非常に助かりました。
 JPO合格に続き、フィールド専門家としても採用されたということで、自分の強運に驚いています。種類の異なる2つのITUの活動に参加できることで、将来につながる有益な経験になることを期待しています。
●インドへの赴任手続き
 JPOと違い、フィールド専門家は国連パスポート(レセ・パセ)をもらえません。専門家としての契約は「ITU職員」としてではなく、あくまでも途上国政府からの要請に基づいた短期契約となり、ナショナルパスポートに公用ビザをもらって赴任します。私の場合は、2ヶ月という短期のため、「Short-term」よりもさらに短い「Special Service Agreement(SSA)」という契約で、USドル立ての基本給+インドルピー立ての現地生活手当てが支払われます。この合計額がかなりの高給になるため、難易度の高い任務になるのではないかと少々ビクビクしているところです。
 ITUによる航空券の手配と、ホテルの予約が完了すると晴れて手続き終了で、インドに赴任することになります。ジュネーブのJPOの手続きの残りは、インド滞在中に進めることになる予定です。
 次回は、インド・ガジャバードから連載記事をお届けします。

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JPO受験からジュネーブ派遣まで(8)
~~ シニアエキスパートの経験 ~~
1999年8月22日
 今回は、インドのガジャバードからお届けします。前回は、ITUのフィールド専門家(シニアエキスパート)の選考に受かり、インドへの赴任手続きが完了したという内容でした。その後、非常に慌ただしく会社の休職派遣手続きを済ませ、ITUとの契約を交わし、7月後半にここデリー近郊のガジャバードという町に着任しました。
●ガジャバードの技術協力プロジェクト
 この町には、Advanced Level Telecommunication Training Centre(ALTTC)という通信省の施設があります。インド最大の電気通信技術のトレーニングセンターとのことで、日米欧の通信機器メーカーの通信装置が多数設置されています。閑静な緑のキャンパスの中にあり、すぐ近くのガジャバードの町の喧騒が嘘のような恵まれた環境です。オフィス棟の上の方の階にあるITU駐在員用のオフィスで、シニアエキスパートとしてプロジェクト業務を行います。
 プロジェクトはUNDPとITUが協力して実施しているもので、技術面をITUが担当します。プロジェクトのカウンターパートは同じALTTCの建物の中にいる通信省の職員で、初日から早速打合せを行い、2ヶ月の計画を立てました。プロジェクトの目的は、インドで普及が遅れているBroadband ISDNの通信実験網を導入するというもので、今回のミッションはその第一弾として、ネットワークのプランニングを行い、技術仕様書を作成し、装置導入のための入札を行うことになっています。
●シニアエキスパートの任務
 ALTTCに駐在するITUスタッフは私一人で、着任初日からハイペースで仕事を進めています。プロジェクトに関係する方々への挨拶まわりが終わるやいなや、過去に行われたUNDP/ITUプロジェクトの技術仕様書の内容や、関連するITU技術標準勧告書を調査し、今回のネットワークの必要条件などを洗い出しました。そして2ヶ月以内に入札を行うために、入札に応じられそうな技術力を持ち、かつインドでの機器納入の実績のある通信機器メーカーとコンタクトを取り始めました。国際的なハイテク企業ならば、大抵ニューデリーかバンガロールに駐在事務所を構えているため、インターネットで連絡先を調べるのは簡単でした。
 2週間目からは、各企業との技術打合せに追われ、全く休む間もなく毎日が過ぎて行きました。激務ですが、とても刺激的な仕事です。企業の内訳は、日米欧の企業に加え、インドのシステムインテグレーションのコンサルティング会社などで、普通はこれだけ短期間に会うことはなかなかできない多くのブランド会社の社員と会うことができました。打合せを効率的に消化できたおかげで、プロジェクト4週間を経過したところでなんとか仕様書が完成し、週末にやっとこの連載記事を書く余裕ができたという訳です。
 ミッションの後半1ヶ月は、ITU本部へ仕様書を引き渡し、入札のフォローを行ったり、ALTTC内の職員に対する技術セミナーの講師を担当する予定です。
●インドでの生活
 オフィスの朝は、掃除のおじさんとの会話で始まります。おじさんはオフィスに入ってくるなり、ヒンディー語で話し掛けてきます。最初は私も面白がって、挨拶の言葉などを教えてもらっていましたが、次の日の朝来ると、前日に教えたことを覚えているか確認し、さらに新しいフレーズを残して去って行くので、毎朝紙に書いて復習する羽目になってしまいました。
 次にやってくるのは、お茶くみのお兄さん。彼も英語が通じないのですが、「チャーイ?」とニコニコやってくるので、疲れた体にしみこむ甘いチャイの味を時々楽しんでいます。
 町は1日に数回停電し、オフィスやホテルの部屋の電気とエアコンが消えるため、蒸し暑い中、バッテリーのあるノートパソコンの画面だけが光っているという状態になります。先日エレベーターの中でも停電に会い、暗闇の中、5分ほど閉じ込められてしまうという経験をしました。
 町に出ると、車、リクシャー、牛、犬、人が渾然一体となって通りを埋めつくしています。少ないプライベートの時間はなるべく外へ出て、町の人と触れ合うようにして、気持ちをリフレッシュしています。
 とても密度の濃い生活をしているため、この2ヶ月のミッションの後、JPOとしてジュネーブへ行くということを忘れそうです。先日まで少し習っていたフランス語などどこかへ吹き飛んでしまった感じがします。(代わりにインド訛の英語のヒアリングは格段に良くなりましたが。)

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JPO受験からジュネーブ派遣まで(9)
~~ インドからフランスへ ~~
1999年12月4日
●インド技術協力プロジェクトの締めくくり
 シニアエキスパートとしての2ヶ月のミッション後半は、主にインド通信省の技術職員向けに、最新通信技術のセミナーを実施しました。セミナーのスケジュールや教材の内容などは、全て任されていたため、ミッション前半に作成した技術仕様書に登場するコア技術について、パワーポイントで教材を作成しました。
 セミナーのメニューには、ワイヤレスLAN、ATM、Voice over IP、ADSLなど、インドではまだ殆ど普及していない技術を取り入れました。通信技術に詳しい職員に対し、3日間のセミナーで使用する教材となると、かなりのボリュームになります。日本から持ちこんだダンボール1箱分の技術書や、ミッション前半で接触のあった企業のホワイトペーパーなどだけでは参考資料としては不充分だったため、ここでもやはりインターネットから技術情報を拾いました。駐在先のガジャバードには、最新動向のわかる技術書や雑誌などは皆無に等しく、かと言って頻繁にニューデリーへ出向くことはできないため、インターネットが頼みの綱でした。
 セミナー当日は、インド全土から技術職員が集まり、私の講義を熱心に聴いてくれました。質問やディスカッションの時の熱の入り方は欧米以上で、講師としての立場はとても大変でしたが、メーカー勤務で培った知識や経験(例えば国際標準化動向や日米での製品開発動向)を織り交ぜ、セミナーは大成功に終わりました。受講者達は、これから新たな講師としてインド全土に散らばり、技術者育成を促進するとのことです。今回インドに蒔いた通信技術のほんの小さな種が芽を出し、医療施設、教育機関、行政サービスなどに少しずつ根付いていく事を、将来自分の目で確かめたいものです。
●日本へ帰国
 プロジェクトの終わった9月下旬の週は、インド議会の総選挙に当たってしまい、例によって全土で混乱が生じ、死者が40人にも上るという事態になってしまいました。これを受け、私の帰国便の予約日は州境が閉鎖されるという情報が流れたため、1日早く首都に移動して、混乱を回避し日本へ帰国しました。この状況は逐次ITUジュネーブ本部へメールしていたため、本部は私の安否を非常に心配し、デリーのUNDPへ援助を要請するなど一時緊張が走りましたが、幸いデリー周辺は平穏のまま終わりました。
 日本に帰国すると、ITU本部へミッションレポートを提出するという大仕事が残っていました。インド通信省内の通信技術の現状、それに基づく実験網の技術仕様書、入札条件に関する資料や、セミナーのプレゼン資料などをレポートとしてまとめ、ビジネスメールでジュネーブへ送ると、2週間後には2ヶ月分の給料がUSドルの口座に振込まれました。国際機関からはじめてもらった給料を前にして、一つの仕事をやり終えた達成感にとても満足しました。
●フランスへ
 さて、いよいよ「JPOとしてジュネーブへ」と行きたいところだったのですが、ITU本部での手続きに手間取っているという連絡を受け、それならばと即座にフランスの語学研修を受けることにしました。ニースにある語学学校の申込み、TGVの時刻表検索、アパートの予約など全てインターネットで済ませ、思い立ってから2週間で現地で受講を開始することが出来ました。
 国際機関で既に活躍されている方や、他のJPOの方の中には英語とフランス語の両方に堪能の方もいますが、私はフランス語はまだ初級のため、現地で集中コースを受講できるというのはとても良い経験でした。ニース滞在中に、インドのプロジェクトのフォローをしたり、JPOの手続きに関しジュネーブと連絡を取り合ったりしながら、5週間フランス語を習いました。仕事の助けになるレベルには程遠いのですが、まずはローカルスタッフとのコミュニケーションの助けになればと思っています。
 ジュネーブにたどり着くまでにかなり寄り道をしていますが、次回はジュネーブ着任の記事が書けると思います。
つづく

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JPO受験からジュネーブ派遣まで(10)
~~ ジュネーブにて[完結編] ~~
2000年3月19日
●長かった道のり
 JPO試験応募から2年弱が経ち、やっとITU本部での勤務が開始しました。思い立ってからの、この2年という期間は本当に長く、私のエンジニアとしての今後のキャリアや、自身の資質を見つめなおす棚卸期間になったような気がします。
●職務内容
 ジュネーブに到着した私を待っていたのは、全く異なる2つの部局の異なる2つのプロジェクトでした。つまり私は2人の上司と2組の同僚達と共に、掛け持ちで2つの仕事を同時並行で行うことになったのです。ディレクターからの指示はそれらをメイン・サブの仕事として約7対3の割合で時間を分割して両方に参加する、というものでした。この事は、事前にもらっていた職務記述書からは読み取れない新たな事実だったので、少し驚いたのですが、両方とも私の専門知識や経験の活かせる仕事なので、最初から比較的スムーズにチームに溶け込む事ができました。
 メインの仕事は、GDCnet (Geneva Diplomatic Community Network)のプロジェクトの技術と企画担当。GDCnetとは、ジュネーブに拠点を置く、各国(主に途上国)の国連代表部とITUの情報ネットをADSL技術を用いて高速に結び、情報通信関連の情報やWIPO、国連の情報が途上国政府へスムーズに流れることを支援するというもので、ジュネーブにいながら、情報通信分野の途上国協力をするプロジェクトです。これにより、ジュネーブ発のITUや国連の情報が、途上国の通信主官庁や通信事業者などへ迅速に流れ、情報収集能力の南北格差の是正に貢献できます。今後はITUだけでなく、WIPO、UNOG、UNCTAD、CERNなどの他の国際機関も積極的にプロジェクトを支援してくれることになっており、また民間企業の全面的な協力を得て、プロジェクトを大きくしていく予定です。私はこれまでの経験を生かし、ネットワーク構築の技術面とプロジェクトのプランニングなどを主に担当しており、とても刺激的な仕事です。
 2つ目の仕事は、ITU内のLANのマネジメントで、GDCnetの合間を縫って、実施しています。ITUのネットワークや情報サーバー群は、膨大な規模で、まるで最新技術の巨大な実験場になっているのではないかという印象を持ちました。これまで技術系の民間企業で働いていましたが、それを上回るレベルに驚き、またこのネットワーク管理や企画に参加できることにとても満足しています。ITUが世界中のエンジニアを集めて行う国際会議で決まった最新の未成熟な技術を、自ら民間に先駆けて導入しているということでもあり、当然トラブルも多いので、我々管理者やは大忙しなのですが.....
 とても優秀な上司と、面倒見のいい同僚に囲まれ、今のところ新しい勤務環境での問題点などなく、滑りだし順調といった感じです。あとは早い時期に目に見える成果を出して、少しでも重要な仕事を多く任されるようになりたいと思っています。
●公用語としてのフランス語
 さて、ITUで勤務してみて驚いたことは、公用語としてのフランス語の地位が高いこと。「第2公用語」ではなくて、英語と全く対等に使用されています。私の2つのチームでもフランス語の支配率が高いのですが、今のところ、私に対して話すときは皆英語を使ってくれています。しかし今後のことを考えると、フランス語をマスターすることは必須と思われ、赴任前にフランスに行って習い始めておいて良かったと思っています。4月からは国連の語学研修が始まるので、もちろん受講する予定です。
(注) ITUの公用語(Official Language)は、国連と同じく英語、フランス語、スペイン語、ロシア語、中国語、アラビア語の6カ国語です。このうち、常用語(Working Language)は英語、フランス語、スペイン語の3カ国語とされており、大多数の職員がこのうちの2カ国語を操ります。
●JPOを目指す人達へ
 私の場合、エンジニアとして技術系専門機関のITUへの派遣ということで、他の多くのJPOの方々とは違った分野となっています。人権、経済、法律、行政などの日本からの派遣実績の多い分野に加えて、民間のエンジニアや研究者などにももっとJPOにチャレンジしていただきたいと思います。「技術立国日本」ですから、技術系の専門機関で活躍できる人材の裾野は広いはずです。
 さて私自身、2年後にどうなっているでしょう。これから国際機関を目指す方に対して少しでも役に立つアドアイスができるように、数少ないエンジニアJPOとして限られた期間を充実したものにしたいと思います。
 気楽に始めた連載でしたが、完結させるのに1年もかかってしまいました。その間、たくさんの方からメール等で励ましの言葉を頂き、大変元気づけられました。本当にありがとうございました。少しでも多くの皆さんが国際協力の舞台で活躍されることを、心から願っています。

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個人HP: http://www.minori-masako.com/

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