2013年6月26日水曜日

キャリア勉強会議事録(三上知佐氏)

キャリア勉強会議事録
日時:2005年5月21日
ゲストスピーカー:三上知佐(UNDP東京事務所勤務 敬称略)
<略歴>
1994年 東京大学教養学部卒業 中南米地域研究(Latin American Studies)専攻 
1994年4月~1997年7月 シティバンク東京支店勤務
1997年9月~1999年5月 コロンビア大学 SIPA
1999年6月、7月     メキシコにて調査活動
2000年2月~2003年1月 JPO UNDPキューバ事務所
2003年2月~2004年9月 UNDPキューバ事務所 プロジェクトスタッフ
2004年10月~現在    UNDP東京事務所 広報担当
1992年から1年間のメキシコ留学中に、その後は国際協力の仕事に就きたいと考えていた。OECFと輸銀にアプライしたが残念ながら縁が無かった。JICAには資料請求まではしたが試験は受けなかった。国際交流基金は受験した。国家公務員も大学入学当初は検討したが、中南米研究をすると決めた後には、それらの試験を受けようという気持ちは無くなっていた。
その後、開発の仕事に就くにはどこで経験を積むのがよいのかと考えたときに、外資系金融機関が浮かんだ。留学の資金を貯めるのにも都合が良かった。
Q:なぜ国際協力を目指したのか?
→メキシコ留学中の体験が動機に繋がった。スペイン語は第1外国語として大学時代に履修していた。
Q:子供の頃の外国経験はあるのか?
→特になし。大学時代、スペインにアイセックのスタディツアーに参加したのが初めて。15名程で参加した初めて海外旅行であった。
Q:SIPAからJPOというルートは就職時に浮かんでいたか?
→浮かんでいた。但し、開発の仕事という枠組を念頭に置いていたために、どの機関に行くかはあまり気にはしていなかった。
SIPAでは国際関係論(International Affairs)を履修、専攻(Concentration)は政治経済開発(Economic and Political Development)とした。2年目でワークショップを行い、グループのペーパーとあわせて、マイクロファイナンス(小口金融)とジェンダーに関しての論文(Individual Research Paper)を書いた。マイクロファイナンスにはシティバンク時代に興味を持った。自分の考え方として、物を買って施したとしてもためにならない、自助努力を促すことが大切だと感じて興味を持つに到った。また、ジェンダーは学生時代から興味を持っていた。就職活動をしている時に、女性への差別を感じることがあったことが発端であった。
Q:専門分野(トラック)を考えるときの情報は十分だったか?相談する人はいたか?
→メキシコ留学は指導教官に相談した。2年生前期の進路を決めるガイダンスの際に、中南米担当の先生から「中南米専攻の人はメキシコにいける」という説明があったので面白いと思った。以前のスペイン旅行がとてもいい経験であったので、スペイン語も勉強をしたいと考えていた。メキシコ留学へは奨学金をもらうことができた。メキシコ国立自治大学に留学した。
情報収集については、当時は、インターネットはもちろん使えなかったので書籍を活用した。アルクなどの留学や国際開発の書籍を読んだ。大野泉さん(現GRIPS)の記事を読んでかっこいいと思った。96年あたりからインターネットが少しずつ使えるようになったので、シティバンクのインターネットを使える部署の友人のところに行き、使わせてもらっていた。
大学院留学に際しては、大野さんが卒業したプリンストン大学のウッドロー・ウィルソン・スクールに一番行きたかった。SIPAはGREの提出が不要であった。学費を自分で工面できれば入れるという話もあった。
JPOは国際公務員になる入り口として知った。国際機関人事センターにもお世話になった。
Q:一貫して相談をしたのは誰か?
→日本の大学の先生とは、今でもやりとりがある。但し、研究がメインのために国際協力の選択については特に相談はしなかった。
SIPAは卒業生の多くを国際機関に輩出しているが、アカデミックな部分には不満が残った。大学では中南米研究は4人の少人数制で全てがゼミのような形ですごく満足することが出来た。しかし、SIPAは International Affairsだけで400名のマンモス校であり、マイクロファイナンスの授業も20人位で行った。同じ学年には40人位の日本人学生がいた。
就職については、米州開発銀行(IDB)にも話を聞きに行ったが縁がなかった。JPOには縁があった。Social Affairsで国連競争試験を受けたが、面接にも呼ばれることはなかった。
Q:インターンは経験したか?
→98年の夏休み6月~7月にUNDPボリビア事務所でインターンを行った。大学院のワークショップでも、UNDPのSpecial Unit for Microfinanceのプロジェクトで単位を取得できる仕事として行った。また、コロンビア大学はハーレムにあるので、そこでビジネスを行っている人達にコンサルティングを行うプログラムがビジネス・スクールにあり、単位を取得した。コロンビア大学の良いところは、大学内に他にもいいスクールがあるので、単位の取得と、望めばJoint Degree(二つ以上の学位を短期間で取得すること)も可能なことであった。
Q:JPO赴任後には不適応期間があったか?
→最初は大変だった。シティバンク時代にも中南米に関わるNGOでボランティアをしており、コロンビア大学でも中南米系の友人と交流はあったが、スペイン語で仕事をするのは初めてだったのでJPOでの最初の3ヶ月間はミーティングに出ても内容がよく分からなかった。また、環境分野の業務に欠員が出たために急遽そちらの仕事を行うことになり、TORに書かれている仕事内容と実際にやっている仕事内容は全く違っていた。その仕事は10年のキャリアのある人が行っていたものであり、その仕事を請け負うことも大変であったし、一緒に仕事をした人もあまりサポーティブでは無かった。JPOも事務所では自分ひとりだけの時期が半年くらいあった。インターナショナルスタッフは上役の人達だけで、困った時に相談をする人もいなかった。しかし、3ヶ月位たった頃には慣れてきて、仕事もまわせるようになっていた。元々のTORは社会開発の分野でありHIV/エイズも含まれていた。エネルギー分野の業務については全く書いていなかった。
ナショナルプロフェッショナルオフィサーとは同列の扱いだった。次席代表に直接報告をすることになっていた。
マイクロファイナンスのキャリアがキューバでは途切れることになってしまったが、キューバで働こうとした時点で発想の転換をしていた。
Q:JPOでの研修はどのようなものを受けたか?
・2000年5月 開発政策入門コース(2週間)
・キューバ国内 テーマセミナー(エネルギーセミナー)
・一年目のJPO研修予算はニューヨークへの出張旅費に充てた。その際、「人間の安全保障基金」の担当者とのミーティングなどの業務と国連競争試験の受験を組み合わせたスケジュールを組んだ。
2002年1月にHIV/エイズ分野の担当になった。今までは、この分野は社会開発分野の担当者が兼任していたが、人間の安全保障基金や世界基金へのプロジェクト助成申請がきっかけとなり担当者を置くことになった。また、FASIDには随分とお世話になり、HIV/エイズ政策立案コ-スやPCM研修を休暇と組み合わせて受講した。また、2004年からはUNDPのVDA(Virtual Development Academy:オンラインの中堅職員向け通信教育)を受講している。
Q:どのような経験が役にたったか?
→一番役立ったのはシティバンクでの経験だった。キューバで担当した分野の専門家は記述の部分には強いが、数字には弱かった。そこで企画書の書き方や予算作成の部分での経験が生きて評価を受けることができた。
SIPAでのグループワーク経験も役立った。日本の文化と違う人とチームを組むことはとても役に立った。
JPO期間中の研修は、就業開始3ヶ月目の早いうちに開発政策入門コースを受けられて良かった。これは時間が経過してから行ってもあまり意味が無いものであった。現在は改善されてきており、今年に入ってからは誰でもオンラインでUNDPのオリエンテーションが受けられるようになっている。
HIV/エイズの業務に携わることになってから行ったFASIDのベトナムでの研修はとても役にたった。
Q:今後より磨いていきたい能力は?
→キューバでは担当した分野での知識があれば、まったく違った形での貢献ができたと思う。東京では今広報の仕事をしているが、初めての分野のために書籍などで勉強をしている。
Q:Pポストとなったのは東京事務所から?
→Lポスト中に空席公告をよく見ていた。日本の組織に所属していれば日本に戻ってくる機会があるが、国際機関では海外を巡るキャリアの流れとなる。このタイミングを逃してしまうと次は所長としてのポストとして日本で勤務するのみであるために東京事務所に移ることを決めた。
今後のキャリアプランとしては何年か日本で勤務を続けた後、常駐事務所での次席等に応募したいと考えている。また、博士号(PhD)を取得するために休職(スペシャルリーブ)も考えられる。
UNDP広報担当者には、募集時に広報のバックグラウンドは求められておらず、開発途上国のフィールドでの経験が求められている。面接の際には広報のバックグラウンドが無いことを伝えたが、それは学んでいって欲しいと言われた。広報を担当する人でも、フィールドでの経験が無いと、このような勉強の場で話をすることが出来ない。UNDPと市民社会との連携を推進し、また、色々な催しにおいて所長が行うスピーチの原稿をドラフトできる人という要求もあった。
Q:プライベートライフについて危機はあったか?
→キューバでの生活には3ヶ月くらいで慣れた。しかし、上司が感情の起伏の激しい人でつらいと感じる時期があった。東京に戻ってから生活は大きく変わった。キューバは忙しいといっても中南米であり、7月25日から8月末までは夏休みモードであった。年末はクリスマスの前の週位から休みのモードに入っていた。しかし、東京ではカウンターパートがよく働くので何事もスピーディーに展開する。シティバンクでは業務用言語は英語だったので、日本語を使って、特に書く仕事を行うのは今回が初めての経験となっている。

(参加者とのQ&A)
Q:LEADプログラムは考えなかったのか?また同期JPOの方々の進路は?
→LEADは第2回目開催のものから受けたが、残念ながら駄目だった。翌年2回目のアプライの前に、LEADプログラムの立ち上げに携わった日本人スタッフにアドバイスを受ける機会があった。CVの書き方が「あれをした、これをした」という内容であり、これではプログラム・オフィサーなら誰でも行っているもので、もっと成果に重点を置き、自分の付加価値を見せることが大事だとアドバイスを受けた。推敲を重ねたものの残念ながら書類選考にも通らなかった。LEADは非常に競争が激しく、今年は14、5人の合格者で年々数も絞られてきている。JPO終了者とナショナルスタッフ、一般募集も含めて選考が行われる。自分の働いている国の常駐代表との関係がうまくいっており、かつ強力なサポートを得られる等の幾つかの条件が必要である。
同期JPOの人たちの進路はあまりフォローしていない。同期はあまり残っていない筈。先日、FASIDのJPO合格者を対象にした研修で話しをする機会があったが、その時にUNDPはJPO終了後に残れないという風聞があると言われた。そこで東京事務所で調べてみたところ、過去3年間では、あらゆる契約形態を含めてJPOの半分弱が残っているというデータが出てきた。
私は2003年にALDのポストに一年間いた後Lポストに戻った。
Q:今のポストは?
現在のポストのレベルはP4だが、このポストに応募した時の私のポストがL3だったので採用の際にもP3での採用となった。
Q:専門性はどのくらい重視されているのか?ユニセフはジェネラリストを育成する傾向もあると聞く。ある分野に特化した方がいいのか?また、今後はどのような分野に進もうと考えているのか?
→UNDPではT字型を能力開発のモデルとしている。一つないしはそれ以上の専門性を持ちつつ、広く開発問題に関する知見も持つことが本部の要望。UNDPのような、国連機関の調整役としての機関では様々な知識が役に立つ。このようなキャリアを積む上では、何をやっていても無駄にはならない。今回の広報の仕事も、各国事務所のマネジメントが知っているべき内容を知ることができUNDPの組織全体を掴むことができるので、将来常駐代表や次席代表になるときに役立ってくる。実際に現場ではそのレベル人たちが広告塔の役割を果たしている。日本はUNDPにとって大事なパートナーであるために東京事務所ではUNDPの上級管理職に会う機会は多い。
Q:機関によって、ポストのレベルの扱いは同じなのか?
→UNICEFなどは、見直しによってダウングレードされた。UNDPの方が同内容の職務で比較した場合、ポストのレベルが高いと言われている。
Q:評価はどのような規定になっているのか?
UNDPはRCA(結果に基づいた評価)を行っており、5段階評価「Outstanding, Exceed Expectations, Satisfactory, Partially Satisfactory, Unsatisfactory」を行う。Outstanding, Exceedは次のレベルに上がっていく評価に繋がる。また、Competency Assessment(能力評価)もあり、「良い・普通・がんばろう」といった形の3段階評価にプラスして全体の評価が加わる。
事務所全体の評価も関連しており、事務所全体の業績(Performance)が良いときには、評価も上がってくる。事務所毎に各段階のパーセンテージは決まっている。一番、評価がしやすいのは数値評価だが、この仕事は数値評価をするのが難しく、毎年議論を重ねて改善を行っている。例えば、資金調達(fund raising)が出来たからといってすぐ昇進するわけではなく、逆に出来ないからといって、評価が下がるわけではない。
Q:職員の中でGeneralistとSpecialistの比率はどのようなものか?
→JPOは基本的にJuniorとしてのポジション。例えばスウェーデンのJPOなどは日本のJPOに比べて年齢も若く、職務経験の無い者もいる。去年の日本人のJPO合格者の中には、専門性のある人もいたが、総じてジェネラリストの方が多いと感じた。国連機関側としては必ずしもJPOに専門性を求めてはおらず様々な職務に対応できる人(Multi-Skilled person)が求められている。それにも係わらず国際機関人事センターは専門性のことを言っている。以前は、国連機関は専門性を要求していたが、開発のニーズは刻々と変わっていくので、柔軟な人材が求められている。私はそれしかできないという人は、その狭い専門分野が廃れた時に応用が利かなくなる。国連機関は管理業務にジェネラリストの正規職員を採用し、専門分野はコンサルタントに委託するという方向に進んでいる。
Q:JPOの派遣先を決めてから赴任までの期間は?
→JPOには1998年12月合格し、当時大学院在学中だったこともあり翌年8月以降に赴任したいと希望した。早く赴任したい人達は人事センターに働きかけて話が進んでいった。1999年5月くらいになると、少しずつ焦りを感じたので人事センターと相談を始め、同年10月にキューバ事務所への赴任が決まった。その時は書類選考のみで電話面接は無かった。実際に赴任したのはJPO合格から1年2ヶ月後の2000年2月であった。
東京事務所は空席公募であり、決まるまでは早かった。2004年6月にアナウンスメントがあり、電話面接が翌々週に行われた(約30分)。正式な書類が届くのは遅かったが、メールではすぐに返信がきた。東京事務所は同年10月に総裁のミッションがあるので早く来て欲しいという要望があったが、キューバはハリケーンの影響もあり長くいて欲しいという要望もあった。そのような状況下で同年9月末には後任を決めて東京に赴任した。
Q:JPOの書類を揃えるのは大変だったか?
→そうでもなかった。P11は人事センターの見本を見ながら記入を進めていった。米国の大学院ではCVの書き方トレーニングなどある。最近は、自らが達成したことに基づいて(Result basedで)書くのがいいとされている。それよりもシティバンクで仕事をしながら大学院にアプライをする方が大変だった。
キューバではTOEFLが受けられないのでペルーで受けた。TOEFLの足切りについては、最近は競争率があがっているかもしれないが、私自身は昔のPaper Based Testで620点だった。
Q:アメリカの大学院の選択はどのように決めたのか?
→NYは地の利が良かった。コロンビア大学では今ジェフリー・サックスも教鞭を取っているし、国連機関のお膝元でもある。
Q:UNDPのトップが変わるのは組織としてどのように影響していくのか?
→私も知りたい部分。新しい総裁はCVベースでしか知らないが期待も多い。マロックブラウン総裁はどんどん改革を進めて、それが評価をされてUN本部に移ったが、この路線を次の総裁も継続していって欲しい。そのようなリーダーシップを期待している。
最後に、時に若い時には、今やっていることと自分がやりたいと思っていることが違っているかもしれないが、そこでやっていることは何ひとつ無駄にはならない。今やっていることに真摯に取り組んで次に繋げていった方がいい。
(終わり)

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