2013年6月26日水曜日

進め!JPO「赴任前のお仕事編」 青木佐代子氏

進め!JPO「赴任前のお仕事編」
UNICEF・ペルー事務所 JPO
青木佐代子氏
(ML連載記事)

JPO赴任前のお仕事編・パート1  2001/1/22
こんにちわ。フジモリ大統領がいなくなったぺルーのリマからです。はじめまして。青木佐代子です。1月15日にUNICEF PERUに赴任したばかりのスーパー・ルーキーです。この「進めJPOシリーズ」ではきっと一番ルーキーだと思いますので、まだあまり専門的なことは書くことができません。とりあえず、どうやら他のJPOにないあまり経験をしたようなので、「JPO赴任前のお仕事編」です。連載は2回か3回だと思います。どうぞよろしく。
さて、南米エクアドルに在住して約3年。まったくできなかったスペイン語も、友人達が「ああ、あんたがスペイン語ができなくて、おとなしかった時代が懐かしい」と嘆く程度には上達したようだし、プログラムが面白そうだったのもあり、JPOの赴任先をUNICEFペルーの教育ポストに焦点を合わせていました。
ところが、世の中はそんなには甘くないようで、一転、二転、三転…。結局UNICEFペルーの他のポストのオファーが来て、考えた末にそれにすっかり乗ったつもりでいたところ、11月頭のエクアドルの休日の昼下がり、ふいに、UNICEFペルーのレップ(代表)から電話がかかってきました。電話インタビューをしたいという申し出があることは、NYのUNICEF本部から言われて知っていたので、「あ、来た来た、例のポストの…何を聞きたいんでしょうかねぇ」と気楽に電話に出ると、その北欧出身のレップは流暢なスペイン語で切り出した。
「エジュケーション・オフィサーが年明けからアフリカに移動になることが、昨日正式に決まったんだけど、赴任前に、引継ぎをしに今年中に1ヶ月来れる?」 「…行ける。でも飛行機代は出して。」青天の霹靂。フリーで仕事をしていたのもあり、その日に予定していた温泉行きも急遽取りやめ、こうして10日後の出発への「くるくる狂騒劇」は始まった…。(でも、本当の「くるくる狂騒劇」はペルーに着いてから始まるということは、知らぬが仏であった)
翌日にはUNICEFペルーの人事部から電話。ペルーとエクはお隣なのにどうしてこんなに電話回線が悪いんだろう。何でも、「SSA」(Special Service Agreement)というコンサルタントを雇う時の契約で行くことになりました。あくまでもJPO赴任はニンジンです。走れー、走れー、コータロー。急いで飛行機の予約をし、でも契約書がまだなので発券はせず。SSAの契約書とTOR(Terms of Reference)がファックスで送られてきて、内容をよく確認した後、サインをして返送。「にいやさーん、ペルーでの費用出してくださーい」「だめ」。
「Hola,あのー、日本政府は資金はだめって言ってます」「仕方あるまい。ぺルーで出しましょ」。
出発前日に何とか準備を整え、朝8時のフライトに乗ったら、昼前の10時にはリマに着いてしまった。用意されたアパートに荷物をおいて、すぐにオフィスに行ったら、とりあえず、現在空席のプログラム・コーディネーター(オフィスのナンバー2)のオフィスを使わせてくれたので、とっても広くて快適。即日コンピューターも入れてくれる。すごーい、ここ、ホントに南米?1ヶ月の出張研修に来るという話があってから、たった10日しか経っていないのに、みんなよく名前を覚えていてくれて、歓迎してくれました。
「研修」目的で来たかと思いきや、すっかりだまされた。「仕事」で来たんであった。年明けすぐにアフリカに栄転したペルー人のエデュケーション・オフィサーのもとで、プログラムについて学びつつ、あっちゃこっちゃへの「お使い要員」として派遣されスピーチはさせられるわ、プロジェクト・サイトへの出張はあるわで、てんやわんやの1ヶ月でした。
ペルーに着いて一番感動したのは、沢山スーパーがあって、とっても便利! さすが、日系人が沢山いるペルー、ラーメンまで売っている!! 素晴らしい。
そんな訳で連載2回目は、その「てんやわんや」についてもう少し詳しくお知らせしたいと思います。お楽しみに。
それではまた。
青木佐代子
JPO赴任前のお仕事編・パート2  2001/1/27
お元気ですか? UNICEFペルーのルーキー、教育担当JPO、青木佐代子です。JPO赴任前のお仕事編・パート2です。パート1に関して、ご好評を頂きまして、メールで感想など寄せてくださった皆さん、ありがとうございました。励みになります。
さて、今回は、JPO赴任前の1ヶ月の試用期間として、イキナリUNICEFペルーに連れてこられ、そこでどんな「てんやわんや」「くるくる狂騒劇」があったかをお伝えします。出発直前ににいやさんが、「ちゃんと仕事しないと断られるかもよー、がんばってねー、いってらっしゃいましー」(原文のまま)と熱いエールを送ってくださいましたので、大変機嫌良くペルーに到着致しました。
まず、アフリカ赴任を目前にしたナショナル・オフィサーのエジュケーション・オフィサーとブリーフィングです。来る2日前にファックスで送られてきたTOR(Terms of Reference)をもとに、「質問ある?」「あの、ぜんぜんわかりませんけど、1番目が特に良く分かりません。なんですか、Synthetic Report of
Sistematizationって?」「あ、僕、年明けにアフリカに行く前に、ここでのExit Reportを書かなくちゃいけないからね、きみのレポートは僕のレポートの一部になる予定。今年の教育プログラムのプロジェクトの総まとめをして提出すること」「…どうやって?」「資料はあるから。オマール!」とここで、そのアシスタントの常駐コンサルタント登場。ムーミン37歳という感じ。「この子にプログラムの資料やって」「・…グラシアス。じゃ、取り合えず資料読みます。そんで明日になったら質問します」「ムーイ・ビエン。」
さて、こうして初日の午後はもらった資料を読み始めたのですが、まったく訳がわからん。それもそのはず、貰ったのは「エヴァリュエーション・レポート」で、プロジェクトの説明はどこにもない(でもそれすらも分からぬほどに、全然わからなかったのよ)。一日の終わりには、すでにアルパカが300匹くらい頭の中をぐるぐる走り回っている。どろんとして帰ろうとしていると、ご機嫌なレップがオフィスの入り口に登場。「どうだった?初日は」「ずっと資料読んでました」「あら、資料読むんじゃなくて、私はあなたに教育プログラムについて学んで欲しいのよ。どんどん話をして、できるだけ沢山のカウンターパートやコンサルタントにあって頂戴ね」「…はい。(何なんだ、このレップとEd.Officerの組み合わせは)」
頼む、ムーミン、資料があるなら出してくれ。ドラえもんなら、のびたくんが「ドラえも~ん」と泣いただけで、何か出てくるじゃないか。「これこれこういう情報が欲しい」と言うと、何でも出してくる手腕は、本当に四次元ポケットなんだけど。ドラちゃんの元へ丁稚奉公に行ったらどうかね、キミ。それともムーミンに、未来の世界の猫型ロボットの機能を求めるのが無理なんだろうか。
さて、こうして絶望的な2-3日を過ごし、ある日オフィスに行ってみると、「リマとカジャオの組織された女性達の大衆食堂自立連盟」という訳のわからない連盟の代表者15人が定期報告に来るから、ミーティングに出てね、と言われる。なんでも、ペルーの人口の3分の1にあたる約800万人が住んでいるメトロポリタン・リマで、88年ごろから活動している女性組合が、リマの貧しい地域で、スープ・キッチン的なものを組織したのが始まりらしい。個人より何人かで集まって食事を作るほうが経済的だからとか。それが段々大きくなって、今は、子供の教育や、保険衛生、女性の権利など、広く活動しているそうです。UNICEFが援助を始めたのはここ数年で、特に、「元連盟代表者学校」というものを支援している。これは、今まで連盟の「代表」をしていたかーちゃんが、任期が終わってイキナリ「普通のヒト」に戻ると、何だかんだと口出ししてウルサクてカナワナイので、その人的資源再利用先として、連盟のメンバーに学ぶ機会を与える「学校」を作ったそうだ。
ペルーには日系人が沢山いますが、やっぱりユニセフなんかで働いている日本人はとってもパンダです。ペルーには他に邦人国連職員がいません。「セニョリータ、名前はなんですって?」「エセ・ア・イグリエガ・オ・ア・オ・カ・イ」綴りまで聞いて丁寧に書き取っているのを見て、なんだかいやーな予感がしたもんだ。
数日後。例の「学校」の創立記念日3周年。早速UNICEFを代表して記念祝典に行って来ました。ひょっとして私は、「お使い要員」?上記のムーミン37歳と行きましたが、「多分、挨拶しろって言われるね。何言えば良いかな」とブリーフィングして行ってよかったです。遅れて着いてみたら、渡されたプログラムに「UNICEF セニョリータ・サヨ・アオキのお言葉」って書いてある。そんで、挨拶したさ。マイク持って。皆大喜びさ。ビデオでしょ、カメラでしょ、カセット録音機でしょ…。そんで、巨大なケーキと安いシャンパンが出て来たので、皆がケーキに気を取られている隙を見計らって、脱兎のように退散。かあちゃん達の集まりは強いなー。
週末は、土日ともボスのエジュケーション・オフィサーと遊びました。日曜は昼からボスの家でランチして(家に住んでいるのは、若者6人、犬5匹+子犬6匹、カメ3匹、オウム3羽)、その後プールに入って遊んで、色んな人が20人くらい出たり入ったりしながら、夜の11時頃までおしゃべりしました。ボスの息子(大学生)やらその他にも、色々と若者が4-5人いたのに、彼等は「サラ・ロハ」(赤い居間)で映画を見ていて、私は「サラ・アスール」(青い居間)でおじさんやおばさんと一緒にお喋りでう。ううう…。大人になるってこういうことなのかなあ。年齢的には彼等に近いのに…。なぜだ、なぜなんだー!!!
それでは次回、連載3回目は、プロジェクト・サイト訪問で、かつて、テロ集団センデロ・ルミノーソ(The Shining Paths)が大活躍した、電気も無いアンデスの山奥にイキナリ飛ばされたお話です。
ごきげんよう。
青木佐代子

JPO赴任前のお仕事編・パート3  2001/2/7
お元気ですか? UNICEFペルー、教育担当JPO、青木佐代子です。JPO赴任前のお仕事編・パート2に対しても、引き続きご声援ありがとうございます。ちょっと間が空きました。先週はずっと出張で、ジャングルの町タラポトへ行っており、サンクード(刺されたら何日もとっても痒い虫)に食べられてきました。
タラポトには「ドアを開こう・先生版」というプロジェクトの開始式典(市役所にて)とそのワークショップ(ホテルにて)のために行ったのですが、文部省の偉い人が一緒にいったのもあり、水曜日にタラポトに着いたら、女性の市長さん直々のお迎えで、おまけに、民族衣装に身を包んだコドモが花束はくれるわ、教師養成学校の生徒達が歓迎のダンスはしてくれるわ、ココは出てくるわ、で大変なことになっていてびっくりしました。翌日のローカル新聞には巨大な写真が載りました。新聞はもちろん買いませんでした。
それでは今回、連載3回目は、前回お約束したように、プロジェクト・サイト訪問で、かつて、テロ集団センデロ・ルミノーソ(The Shining Paths)が大活躍した、電気も無いアンデスの山奥にイキナリ飛ばされたお話です。
さて、訪問したプロジェクトの大雑把な説明です。UNICEFペルーの教育プログラムには、「ドアを開こう」という名前の教育の3年間+プロジェクトがあり、去年の10月から2年目に入ったところです。「ドアを開こう」プロジェクトは、特に農村地帯の女子教育促進のための、教育への多角的アプローチ・プロジェクトです。基本コンセプトは、地方自治体やコミュニティーがコドモの教育に責任を持つというもの。
コドモ、特に女の子の教育の質向上のためには、学校やトイレばっかりガンガン建てても効果がない、というのは皆さんもお分かりだと思いますが、初等教育の成果を上げるためには、まず、その質が大切です。例えばペルーの場合、うそつきピサロが最後のインカ・アタワルパを御輿からヒキズリオロシタ1532年以降続いているビラコチャ信仰スペイン語教育でなく、多文化バイリンガル教育(スペイン語と先住民言語)やらマルチ・グレード(ひとつのクラスに複数の学年のコドモがいる教室)への対応が必要とされています。
それから、コドモを取り巻く環境全体を、コドモが学習できる環境へと改善していかなければ効果を上げることが難しい。例えば、先生のための研修や教材の充実は勿論、「学校に入る準備OKコドモ」を作るために就学前のコドモも考慮に入れる必要があるし、親の、コドモの教育に対する理解と協力、そしてお祭り以外でもコミュニティー参加は不可欠です。盛沢山でしょ。
実施地域は、中央アンデスのチャンカという地域で、メインの町の名前は、アヤクーチョ。また、今年からは、アマゾン地域にも広げ始めています。
なぜこの地域が選ばれたのか。UNICEFはマニアックだと言われたいから。…はずれ。
理由その一: 中央アンデスは伝統的な生活様式や考え方が色濃く反映されている地域で、マチズモ(フェミニズモの極端にある考え方。アンデスに限らず、南米では全体に非常に色濃い)が強いです。そのため、放っておくと、男の子が優先され、女の子の教育がなされないこと。
理由その二: チャンカは、80年代から93年に親玉が逮捕されるまで、毛沢東主義テロリズム集団・センデロ・ルミノーソが大活躍した地域であり、インフラが破壊され、また、その間、安全性への配慮から、開発プロジェクトから取り残されたこと。また、テロの影響で、多くの住民がリマなどの大都会へ「疎開」したため、地域が「過疎化」し、また、テロの傷跡が深く残っていること。
理由その三: もともと非常に貧しい地域であること。(農作物が沢山取れる豊かなアンデスといったら、クスコ近郊の「聖なる谷」などの標高の比較的低い地域)
そんな訳で、「ドアを開こう」プロジェクト・サイトを見に行くことになりました。訪問地がこのコミュニティーになったのは、まったくの偶然。本当に草の根の功労者、UNICEFの「プロモーター」と呼ばれる、アンデスの山々の中に、これでもかというくらいに気ままに散らばるコミュニティー組織するために訪問して周っているファシリテーター(平均年齢30歳くらい)がちょうどその「ルンクーア」というところにいたから。
さて、このコミュニティー「ルンクーア」が、笑っちゃうくらい遠かった。リマからアヤクーチョという町まで飛行機で約一時間。そこから車で7時間。それでも一番近くて車で行けるところを手配した、と誇らしげであった…。
テロ集団センデロ・ルミノーソに占領された町々を抜け、彼等に虐殺され絶滅した村々を通り、爆弾で破壊された橋を横目に、舗装されていない山道を行くこと7時間。夕方の5時ごろ、やっとのことでコミュニティーに着いたら、私達は埃マミレ。しかも、道々聞かされたカーラジオの「パシージョ」という音楽のせいで頭の中が、水アメの中の杏状態。しかし、早速村人達が集まってくれ、男女ペアのUNICEFの「プロモーター」の指揮の元に、彼等のコミュニティーについて話し合う。ところが、途中から話が脱線し、前回、歩いて3時間の町役場から来た活動資金が酒代に消えたのは誰のせいか、というので喧嘩が始まってしまう(皆で飲んだくせに)。電気がないので、ロウソクをともしてのケンカだ。村人達は、エキサイトしてくるとケチュア語オンリーになり、話の内容がさっぱりわからなくなる(それでも見ているのは面白かったけど)。
しかし、寒い。北風小僧のさんたろうだー。リマは夏でもアンデスは冬だったんだなー、シエルト、シエルトー。アンデスをなめてはいかん。さて、結局、この晩の集会、話し合いという点ではあまり成果がなかったようだが、「プロモーター」はまだ2日活動日があるし、村人は「しゃべるパンダ」が見れて大満足、といった体であった。
全く電気がないところに行ったのはとても久しぶり。暗くなったら何も見えないのですよ。当たり前だけど、足元も見えないし隣にいる人の顔も見えない。風がざわざわ言って、木の影が見えるだけ。村があるのに、見渡す限り光が一つも見えないというのは、なかなかの景観です。台所を借りて、持ってきた夕飯を暖めてもらって食べ、誰かの家の屋根裏に沢山羊の皮を引いてもらって眠る。これがなかなか快適。外から来た人は皆一緒に雑魚寝。
翌日は学校見学。非常に活き活きした子供達で、3人の先生達もクリエイティブでコドモと仲良くやっていた。土をこねくり回すハナタレ小僧の袖をまくってやったり、お話を作る教材の取り合いをする3-4年生をなだめたり、5-6年生の劇に爆笑したりしていた。
帰りも7時間かーと思いきや、ビルカスワマンという中間地点に着いたところで、「本日はストライキなり」。道が封鎖されていて、飛行場とぬるま湯が出るシャワーのある町に辿りつけない。なんで、なんで。でも、もうお昼の時間だから終わるんじゃないの、雨も降りそうだし。南米のストライキは、お昼休み2時間、週休2日、雨が降ったら解散、サッカーの試合がある時はやらないって決まってるじゃない。しょうがないので、のんびりお昼を食べ、インカ時代のピラミッドを見学する。それでもまだストは終わらない。寄ってきた子供達とお喋りし、匂って来た焼き立てのパンに辿りつき、その辺をぐるぐる回ってみる。堪忍袋の緒も切れるかという直前、何とか道が開通。
途中1度タイヤがパンクして、30分ほど休止したものの、結局10時間かかって真夜中近くになって、何とか無事にアヤクーチョに辿りついたのでした。あー、よかった。もう帰れないかと思っちゃった。
さて、連載第2回に触れた「UNICEFペルー教育プログラムについての総まとめレポート」についてですが、契約のコンサルタント達がそれぞれの担当を書くことになっているという。しかし、エクアドルでの経験から、彼等は、放っとけば、長ったらしいレポートはガンガンだすし、やたらレウニオン(ミーティング)したがるし、レウネればレウネるで、たらたらいつまでも話すし… ちゃっちゃと質問をして、自分が知りたいことを聞いたら、ニコニコして追い出す、ということを学びつつあります。それで、そのレポートについても、埒があかねーよ、と思って、ある日、「統一のフォーマットを使いましょう。ハイ、これがフォーマットです。私の知りたいことは、これとこれとこれ。長さはどんなに多くても4ページ!」とメモを作って、そのまとめをやってるコンサル軍団にがんっと送りつけてやりました。はははー。 
それでは、次回連載4回目最終回は、JPO赴任前のお仕事を終えて、無事にペルーを脱出するまでのお話です。
チャオ!
青木佐代子

JPO赴任前のお仕事編・最終回  2001/2/24
お待たせしました。UNICEFペルーの青木佐代子です。JPO赴任前のお仕事編・最終回です。間が空いてしまい申し訳ありませんでした。決して寝とぼけていたわけではないのですが、電光石火の早業で時間が過ぎておりまして…。
リマは夏の真っ盛り。毎日とっても暑いです。今日、赴任6週間にして始めて海水浴へ行ってきました。脱皮するのも時間の問題。焼いていいのか、青木佐代子もうすぐ30歳。
今、UNICEFペルーの教育科はおおわらわ。ペルーの学校は、日本のように4月から始まり12月に終わります。学校が休みの夏の間には、文部省が中心となって先生の研修が全国的に展開され、そして、同時に3年ほど前にUNICEFが始め、現在ではすっかり文部省のものとなった「学校へ行きましょう」キャンペーンが大々的に行われるからです。UNICEFは文部省へのテクニカル・アシスタンスをしているので文部省と共にとってもくるくるしております。4月くらいになったら落ち着くというので、期待しましょう。
ちょっと横道にそれますが、この「学校へ行きましょう」キャンペーンのおかげで、ペルーの初等教育の就学率は93%です。しかし、出席率になると76%、そして一年生を終わるのは48%という状態です。ありゃりゃ。タンザニアの宮沢さんが、同じく「進めJPO!シリーズ」連載であげていらっしゃる学校に行かない理由というのは、文化がこれほど違っても(ちょっと経験があるバングラデッシュも)、かなり共通するものがあり、大変興味深いです。そんな訳で、今年のキャンペーンは、「就学」と「出席」の両方に力を入れています。教育の質に問題があることは確実なので、UNICEFとしてはそこをアタックしようとしているところです。
さて、今回は、赴任前の1ヶ月の仕事を終えて、どうやって無事に脱出したかというお話です。
月日は飛ぶように過ぎていき、あっという間に最後の1週間です。年末が慌しいのは日本だけではありません。12月に入ってようやく、皆、「あ、今年のまとめをしなくちゃ」と思うらしく、やたらと色んなレポートを出せ、とラティーノにしては珍しく、皆、目が三角になっている。知らぬ、存ぜぬ、私はまだお客様だもんね、そんなレポートなんて、出しゃしないよ。ペルーにないもの其の一:能率の良さ。
でも前回お知らせした、「UNICEFペルー教育プログラムについての総まとめレポート」は出さなきゃいけない。なんと言ってもTORに書いてあるし。例のコンサル軍団に、「〆切はジョン・レノンの誕生日、午後5時。あ、できなかったら、ハラキリだから。」と言ったのが効いたのか、ほぼ予定通りに揃いました。すごーい、ココホントに南米? 足りない部分と、コメントは書かなくちゃいけないけど。でも、4ページと指定したのが効いたようで、誰一人として、心にうつりゆく由なしコトをそこはかとなく書き綴っていないのがすごい。
最後の1週間は、まだいくつかの式典へご招待されている。アフリカ赴任を目前にした教育オフィサーと一緒に、ワークショップでセッションをすることになっている。「ドアを開こうプロジェクト」のプロモーターが皆でバスで一晩揺られて、アンデスの山々からリマでのワークショップにやって来る。きゃー。先週はクスコへ行き、今週は教育オフィサーと行くはずのジャングルへの出張。前日になってキャンセル。旅の手配をしてくれた皆さん、ごめんなさい。まるでボリショイ・サーカス状態。ペルーにないもの其の二:計画性。
「引継ぎで、まだまだ会わなくちゃいけない人が沢山いるよ」「もう、これ以上会っても覚えられないよ」「ちょっと散歩に行こう。そうしたら、今まで覚えた人の顔と名前が消化されるから。ついでに朝ご飯も消化できる。ひひひ」 ・・・またそんな無責任なこと言って…。
「はい、みなさん、彼女が新しい教育プログラムのアシスタントです」って紹介されると、みんなびっくり。皆、アメリカで教育修士号取った、アマゾンや先住民問題や災害救援の経験がある、すごいヒトが来るって聞いているのに、やって来たのは「どう見ても22歳にしか見えないニーニャ(女のコ)」。教育オフィサーも気心知れた相手には「この子の面倒見てやってね、頼むよ」と言ってまわっていた(笑)。
それとは別に、レップ(代表)はレップで、「これ目を通してね」「あれも、勉強になるから、読んでコメントちょうだいね」「それ、新しい視点が欲しいと思ってたのでちょうど良かったわ」と雪崩のように、次々とドキュメントを投げてよこす。そのうちいくつかは、「時間があったら」という枕詞があったそうだが、私には届かなかったじゃないか。なぜだー。
オフィス内外の人々も、「いつ戻ってくるの。じゃ、それまでにこのレポート仕上げておくから、戻ってきたらミーティングしようね」。嬉しいような、悲しいような。
そんなサーカス状態のUNICEFの内外でも、早々とお祭り気分に突入している人達も大勢おり、クリスマス・パーティーのご招待やら、年末フィエスタのご案内やらがワンサを舞い込んでくる。中には、「キトに帰るの延期しなよ。このフィエスタが終わってから帰れば良いじゃない」などと無責任なことを言う人々もおりましたが、段々と、脱出するその瞬間まで仕事させられるんじゃないか、とうすうす感づいてきた私でありました。だって、国全体が、直立シエスタ(お昼寝)どころか、集団昏睡状態に陥ってるんじゃないか、というペルーであるが、彼等も自分の利益に直結していることには、めったに見せない集中力と忍耐力を、惜しげなく発揮するからである。
1ヶ月の契約が切れるのが金曜日、エクアドルに帰国予定は翌日の土曜日。ところが、くるくる狂騒劇は段々とその回転速度を増し、せめて週末半分伸ばせる?と言われて、キトへ帰るのを一日延期。結局二日延期して、出発はある月曜日の昼12時半の便。10時にオフィスを出発すれば間に合うから、と8-10時はオフィスで最後のてんてこダンシングをしたのでした。なんと言っても、農民と菜種は絞れば絞るほど出る、と申しますから。
飛行場へ向かう時間までオフィスに缶詰になっていて、本当にキト行きの便を逃すところでした。これ以上つかまらないように、とレポートを出すと、抜き足、差し足でオフィスのドアを無事に通過し、タクシーに飛び乗って空港へと脱出。あー、よかったー、もう帰れないかと思っちゃった。あー、どきどきしたー。キトへ戻って、赴任手続きのためUNICEFエクアドルへ直行して、帰ってきたら、その晩から体調をこわして寝込んでしまいました。
そして、UNICEFエクアドルの人事部の素晴らしいアシスタンスの賜物で、去る1月15日に正式にUNICEFペルーへ赴任。初日に出勤すると、机の上は書類の山。えー、どうして全部私宛てのメモがついてるのー? 本当のくるくる狂騒劇は…知らぬが仏であった。
現在、赴任6週間目、相変わらずぐーるぐるしておりますが、あったかい人々に囲まれて生活しています。ペルー人という人々はとっても人懐っこく、優しく、情に厚い人々だと聞いています。会議ばかりでキレそうになると、早めにお昼を食べに連れていってくれる同僚あり、山積みの書類に同情して、ちょっとしたリサーチを手伝ってくれる若者あり。土曜出勤をしないようにと、ビーチに連れていってくれる友人あり、ちゃんと栄養のバランスがとれた食事をしているか毎週チェックしてくれるコンサルタントあり、お昼をのがした時に、バナナ・チップスを差し入れてくれるアシスタントあり。赴任して間もないのに、ナーバス・ブレイクダウンするんじゃないかと思うこともありますが、そんな彼等に囲まれて、なんとかやっていけそうです。やっていきたいと、良い仕事をしたいと、強く思います。
JPOの2年間はとても短い。その間に自分も沢山成長しなくちゃいけないし、特に二年目に入ったら、その後のキャリアが続くように努力しなくちゃいけない。ここでのプロジェクトばかりに集中していては、外が見えなくなるのかもしれないなと思う。一年目は思考錯誤ばかりしていて当たり前だと思う。何といってもまだルーキーだし。それでも、ようやく辿りついたこのペルーという魔法の国で、JPOとしての2年が過ぎるまでに、小さな種をまき、いつかそれが大きな木になって、そしていつの日にか、その枝や木陰が、人々の活力と笑顔の元になるようにと、強く願う。
気ままな連載にお付き合いくださって、ありがとうございました。それでは皆さん、ごきげんよう。
ペルーより愛を込めて。
青木佐代子


・・・・・・・・・・・・・・その後・・・・・・・・・・・・・・
進めJPO!続編
ユニセフコンゴ民主共和国・ゴマ事務所 青木佐代子
2009年2月20日


 「進め!JPO-赴任前のお仕事編―」と題して、JPOとしてユニセフ・ペルー事務所の教育担当補佐として赴任する直前・直後の様子をお届けしてから8年も経った。その間一年世界銀行で勤務したが、今もユニセフで働いており、まもなく8年目に入る。
●ユニセフ・ペルー事務所、JPO 時代
 2001年1月にJPOとしてペルー事務所に赴任して2年。魔法の国ペルーでの日々は本当に楽しく、暖かいペルー人の友人や同僚に囲まれて、今振り返ると本当に大切に育ててもらった時期という印象だ。
 さて、赴任2年目が終わる4ヶ月ほど前、3年目をペルーで延長するかどうか迷っていた時のこと。ペルーでの生活は楽しかったが、ユニセフ・ペルー事務所は、あまり地域事務所や本部と連絡がなく孤立した感があり、次のステップにつながるかどうか、今ひとつ頼りなかった。そこに降って沸いたのが、ユニセフNY本部でのJPO3年目のチャンス。半ば強引に参加したパナマでのユニセフ地域会議で機会は巡ってきた。2002年9月のこと。日本政府が拠出している人間の安全補償基金を「乳幼児早期開発」(Early Childhood Development:ECD)に適用するという趣旨のプレゼンをしたのだが、それに注目してくれたのが当時ユニセフNY本部でECDのチーフだった。プレゼンの後、トイレで。「あなたのプレゼンとてもよかったわ」「ありがとうございます」「JPOなのよね?今後はどうするの」キター。「3年目の延長を考えており、できれば移動したいと考えてチャンスを探しているところです」ね?笑っちゃうくらい理想的な展開でしょ?
 日本政府もこの移動を快諾してくれ(ありがとう!)、5ヵ月後にはスムーズにNYへ移動。2003年2月のNYは150年ぶりの大雪というとんでもない冬で、出発のその日まで、リマのビーチで甲羅干しをしてビールを飲んでいた私は、あまりの寒さに目がちかちかした。
●ユニセフNY本部、JPO3年目
 NYでの一年はあっという間に飛び去った。半年たった頃からかなり真剣に次のポスト探しを始めたが、全滅だった。インタビューまでは行くのだが、決まらない。ひとつP3の教育ポストが決まりそうだったのだが、その事務所の代表が、インタビューの結果と人事部の推薦を見て「誰これ?こんな風に外から連れてこないで、今ウチにいるコンサルタントを雇えばいいじゃない。そうすれば引越し代もかからないし、明日から働いてもらえる」と、あっけなく却下された(人事担当者が怒って教えてくれた)。
 NYでの仕事は面白かったが、JPOレベルでのNY勤務はあまり勧めない。本部はシニアレベルになって初めて仕事ができるところで、JPOのような経験も知識もない人々はほとんど存在意義がないと言っていい。同じJPOでも小さなフィールドオフィスなどではかなり重要で責任のある仕事ができるところなのだが。ただ、早い時期にNY本部を通ったことで、広い人脈を得、各国の代表や組織の中心人物に出会ったことは、今でも大切な財産になっている。
 JPO3年目の任期切れも目前。本当に焦っていた。ユニセフや日本政府に対して逆恨みもした。軽い鬱になっていたのではないかと思う。自分はこんなに一生懸命に3年間も働いたのにと、裏切られたような気がしていた。
 そんな2004年1月のある日、契約切れまであと10日というところだったろうか。世界銀行から一通のメールが届いた。「あなたの評判を聞いてメールをしています。中央アメリカ・チームで、先住民族と黒人の参加型プロジェクトについてコンサルタントとして働きませんか。」
●世界銀行、コンサルタント
 渡りに船。捨てる神あれば拾う神あり。2週間後の2004年2月、NYからワシントンDCに引っ越した。仕事は面白かった。専門の初等教育でなく、中央アメリカで実施されているいくつかの世銀のプロジェクトにどのような形で先住民族、特に黒人が参加しているのか、またプロジェクトを参加型のものにするためには、世銀は何をすればいいのか、という一種の政策提言をするというのが仕事の内容だった。始めは一体何をすればいいのか分からず戸惑ったが、手探りで進み、非常に面白い経験をさせてもらったし、勉強になった。
 世銀での一年間、もちろん常に職探しをしていた。緊急援助に興味があったので、国際赤十字(ICRC)の研修にも参加し選考最終段階まで残ったが、フランス語ができなかったので、「できるようになったら」と採用は保留になった。ユニセフのダルフール地域のポストにも応募した。JICAのジュニア専門員も考えたが、新たにTOEFLを受けろというのでばかばかしくなってやめた(アメリカで修士号を取っているし、現にアメリカで仕事をしているのにTOEFLだとー?と思って・・・)。博士課程進学も考えた。そして、もちろん世銀内で残る方向も。
 そして、世銀の「イラクチーム教育部」での話が持ち上がったのは2004年11月ごろ。コンサルタントと正規スタッフの中間のような期限付きスタッフとして、イラクの教育政策を立て直すというものだった。ただ、戦争中のイラクには行くことができず、仕事の3分の1くらいはヨルダンに出張して、そこから遠距離操作で仕事する、という条件付だった。上司は元ユニセフで評判の高かった人で、常に尊敬していた人だった。すっかり寒くなったワシントンDCの世銀とIMFの間のコンクリートに囲まれた味気ない歩道を、突き抜けるような青空の下、ウキウキと弾むように歩いたのを今でも思い出す。
 
 それからは仕事の傍らイラク情勢を追い、イラクの歴史や文化について学習する毎日。そしてクリスマスの翌日、12月26日。後になってそれは一生忘れられない日になった。2004年12月26日。津波。
 しかしその日もイラク情勢を追っていた私は、スマトラ沖大地震・巨大津波には無関心で、夕飯を食べに来た友人に「アジアで津波があったんだよ」と言われ、「まあ。死者はでたの?」遠い世界での遠い出来事。そして、アジアの津波はそれで終わり。のはずだった。
 2005年1月10日。年末年始を日本で過ごした私は、その前夜も飲み過ぎて午前様で帰宅。朝の7時に電話がなった時はベルの音で頭が痛んだ。「おはようございます。こちらユニセフNY本部です。これは会議電話です。」え?思わず耳から受話器をはずしてしげしげと見つめてしまった。これはなんの冗談かな? 「世銀での契約を反故にして、津波の緊急支援でインドネシアのアチェに行かないか?」寝耳に水とはこのことで、アチェの名を内戦地域としてだけ知っていた私は、一体どうしてアチェと津波が関係あるんだろうか、と思いながら話を聞いていた。あまり質問はされなかったのは幸いだった。もしされたらきっと、「あのー、アチェは津波の被害にあったんでしょうか」って聞いてたと思うし、そうしたらその場で会議電話は終わってたと思うし。
 その場で決断を迫られ、なんとか12時間の猶予をもらい、電話は切れた。すっかり目の覚めた私はすぐさまインターネットで「アチェ、津波」と検索すると、出てくる、出てくる・・・。ひえー、20万人死亡!? 史上最悪の自然災害。友人何人かと国際電話で話し、そして決断した。「行こう。今しかできない仕事だから。イラクやアフガニスタンは津波復興の後でもきっと状況はあまり変わっていない。それでもまだやりたかったらそれからでもできる。」
●ユニセフ・アチェ事務所、津波復興
こうして津波後3ヶ月、私はアチェに降り立った。2005年3月、スマトラ沖大地震で津波被害が最も大きかったインドネシア西端アチェ州の州都バンダアチェにユニセフが開設した事務所に教育課の課長として赴任したのだ。スタッフは10名ほど。震源に最も近いアチェでは、死者・行方不明が17万人に達した。2千以上の学校が津波で全半壊した。各国政府やNGOをリードして、授業の再開と学校の再建を目指す。テントの青空教室からスタートし、学用品を配布する。その後、仮設教室、本校舎と段階的に支援を進める。亡くなった教員の代わりになる人材育成もする。一方で、再建の熱意や目に見える結果を焦る余り、児童・生徒数の減少や耐震性への配慮が不足し、時に板ばさみになった。
学校は磁石だ。津波ですべてが流された地に仮設教室ができると、周りに店が開き、散り散りになっていた被災者が帰ってくる。学校は、子どもが日常を取り戻す手助けをする。授業を受け、友達と遊ぶ子供たちの顔に徐々に笑顔が戻る。
アチェにいた2年間のうちに、ジャワ島中部地震、そして隣国の東ティモールで争乱があり、数週間から数ヶ月単位で緊急支援ミッションに向った(ついでに東ティモールのミッション中には、週末を利用して、スキューバのレスキュー・ダイバーの資格まで取ってしまった)。
津波被災地のアチェで教育復興を指揮して、アチェの人々の底力に脱帽した。何をしても津波前の状態には戻れないし、彼らの歴史は永遠に変わってしまったけれど、それでも良い方向に進んで いると手応えを感じつつ、アチェに降り立ってちょうど2年後、私は新たなポストを得た。
●ユニセフコンゴ民主共和国、ゴマ事務所。紛争地
今度の赴任地は紛争地だ。2007年4月、アフリカのコンゴ民主共和国東部で今も内戦が続くユニセフ・ゴマ事務所に教育専門家として赴任した。またしても教育課の課長で、スタッフはやはり10名ほど、年間予算は9億円。コンゴはフランス語圏だ。30年以上武力衝突を繰り返すコンゴ東部。犠牲者は540万人にのぼり、第2次世界大戦をしのぐと言われる。今、コンゴ東部の北キブ州の人口500万人の2割、100万人が紛争の為に国内避難民となっている。
紛争地での赴任は初めてだ。赴任前、紛争とは銃弾やロケット弾などが飛び交う軍事的な衝突を指すと漠然と考えていた。だが住民にとっては、交戦が引き起こす様々な事態のほうが恐怖の対象であることがすぐに分かった。
村が戦闘に巻き込まれるという噂を聞いて、恐怖に怯えながら、最小限の家財道具を持って何日も何週間も歩いて逃げる。途中に民兵たちが設けたチェックポイントで、それすら奪う嫌がらせを受ける。武装勢力は村々を回り、略奪や虐殺、放火、レイプを繰り返し、子供を連行する。逃げたところをまた追われ、逃げ場のない状況が長年続いていることが、まさに人々にとっての紛争なのだ。
交戦に巻き込まれるのは避けられる。しかし、その後の町・村を選挙した側(政府軍または民兵)による「褒美」としての、血なまぐさい略奪、レイプ、殺害、焼き討ちからは逃げられない。先週、ゴマが民兵に後一歩で占拠されるところまで事態が悪化した。町から9キロというぎりぎりのところで国連軍とコンゴ軍が民兵の侵攻を防いだ。午後の4時ごろ、突然に事務所から直接、避難場所(WFPの事務所・倉庫)に移動になり、その夜は町中で残虐な喜びに我を忘れた政府軍兵士による略奪、放火、虐殺、レイプが行われた。武器を持った国連軍に護衛されているとはいえ、避難所のすぐ外で銃声は午前2時まで響き渡り緊張状態が続いた。
そんな中で、私の仕事は、子ども達に勉強する機会を提供すること。紛争下、津波後、地震の後、貧困下…理由はどうあれ、すべての状況において学校や「寺子屋」などを通して、子供の教育が途切れないようにするのが私の仕事だ。どんなに悲惨な状況下にあっても、やがてこの非日常が日常になると、人々は必ず思う。「子どもを学校にやらなきゃ」と。教育に対する彼らの希望と熱意には頭が下がる。
緊急支援の局面で、人道支援とともに教育援助に取り組むことへの理解は、まだ十分とは言えない。時期尚早だと見る向きもあるが、いざ復興、開発に進む時に、学校や教師がなく、人材がいなければ前へ進めない。紛争で長い間、子供が教育から遠ざかっていたらなおさらだ。教育は、食糧配給や避難先の確保などと同様、不可欠な支援なのだ。
紛争の根底にあるものは、政治、天然資源の利権争い、そして歴史。絶え間なく産み出される数十万人もの国内避難民たち。そして危険が去った後、全てが破壊された故郷に戻る帰還民たち。略奪、強姦、殺人、拉致、強制労働、搾取…多くの人権侵害が行われている。先月は地域を大きな地震が遅い、何万人もが家を失った。ゴマを見守るニラゴンゴ火山もまたいつ噴火するか分からない。それら全てが大きなうねりのようにコンゴ東部を飲み込んで動かしているのだ。
そんな状況でも子ども達は毎日成長していく。そして、毎日教育を受ける権利と必要があるのだ。子どもは「今日」で、「明日」ではないのだから。
●これから
ゴマに赴任して22ヶ月経った。任期終了まであと2ヶ月。あまり先のことが考えられない。延長することは可能だが、新しい方向を模索している。毎日の業務に追われ、自己開発(個人として、またはプロフェッショナルとして)ができないのが焦りになる。緊急援助としての教育はまだ新しい分野で、ユニセフの中でも専門家が少ない。つまり、世界中探してもまだ一握りしかいない。第一線で働くことは刺激的だし、決して退屈はしない。遣り甲斐もある。しかし、この経験と知識を点ではなく、面で伝えるような仕事をしたいと思うこともある。または、普通に、どこかのユニセフの教育部の部長。緊急支援でなく、もっと腰を落ち着けて国の政策などに深く関わるのも面白いだろう。博士課程も修めたい。ここ数年課題である、スキューバのダイブ・マスターの資格も取りたいし。
JPOとして始めた時、8年経ってまだユニセフにいるとは思わなかった。どこかの組織にそんなに長くいることがあるなんて、想像したことがなかった。8年という時間とそのうち4年は緊急援助の最前線という経験は、普段考えられないほどの喜び、悲しみ、怒りそして満足感に満ちているものだったと思う。今、ようやく名前が知れてきて、仕事を選べる立場になってきたのを感じる。これからは自分で方向を決めていくことができるだろう。いつまでユニセフにいるかは分からない。私の興味は「子どもの教育」にあって、国連にあるわけではなく、このスタンスはJPO以前から変わらない。だから組織の名前でなく、仕事の内容で進んでいくだろう。そして、どの組織にいても、良い仕事をしていきたいと、願う。
(以上)




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