2013年6月26日水曜日

お気楽極楽食道楽ぐうたら国際公務員あきき

お気楽極楽食道楽ぐうたら国際公務員あきき
国連人口基金(UNFPA)
高井明子
 
第1回 情熱醸成編
 後天性免疫不全症候群(AIDS)という言葉をはじめて耳にしたのがいつかよく覚えていませんが、80年代の半ば、高校の保健体育の授業で取り上げられたことはうっすらと覚えています。なんとなく怖いという病気に対して負のイメージが残っていました。
 日本で普通に大学に進学しましたが、もともとアメリカなどで大学生活を送りたかったので、大学の1年次で早々にアメリカの大学へ進学することにし、夏休みを利用して、大学編入学の準備のためにアメリカを訪れました。英語はというと、中・高校時代、頑張って取り組んでいましたので、日常会話などには支障はありませんでした。
 その際、ちょっとした成り行きで、ボストンの『ボストンリビングセンター』を訪れました。同センターでは、HIV感染者・エイズ患者のサポートを行っており、エイズのことを本や新聞で読んだことはあったものの、実際に感染者の方々に会うのは初めだった私にとっては、大変印象的でした。当時の大都市におけるHIV感染者の置かれた状況について説明を受け、その人たちに提供されているサービス(昼食サービス、グループワーク、カウンセリング・セッション等)を見学し、いろいろと考えさせられることがありました。特に、病気にかかる、という人間にとって最も脆弱になる場面で、HIV/AIDSについては、他の病気と異なり、周囲からからサポートを受けにくいということを知り、やるせない気持ちになり、また、いったい日本ではどうなっているのだろうか?と考えました。
 無事アイオワのグリネル大学への進学が叶った後、長い夏休みの一時帰国を利用して、感染者・患者のサポート、電話相談、啓発活動などを行っているエイズ関連の団体でボランティアをしました。ほとんど飛び込みであったにもかかわらず快く受け入れてくださいました。小さな事務所でスタッフの補助ボランティアとしてひと夏働いての感想は「熱意がある。しかし、お金と人が足りない」ということでした。
 アイオワの片田舎で大学生活を送りながら、私は、HIV/AIDSにずっとかかわっていくのだろう、と漠然と考えていました。ですので、大学卒業後、アメリカで公衆衛生の大学院に進学することも考えました。しかしながら、進学前に就業経験があったほうがいいというアドバイスもあり、とりあえず日本に帰国し、国際エイズ会議の事務局での仕事を経て、「ぷれいす東京」というエイズ関連のCBO(Community Based Organization)で働くことになりました。
 また、このような仕事を通じて、日本国内のエイズだけでなく、感染がより広がっている開発途上国におけるエイズの状況を知り、感染者・患者のサポート、感染拡大の予防にかかわりたい、と改めて考えていたところに、たまたま友人から東京大学大学院医学系研究科国際保健学専攻の修士課程の次年度学生募集のことを聞き、そこに進学することにしました。この学科を選んだのは、留学生を念頭に置いているため英語重視の試験を実施しており、私にとって比較優位があることが主な理由でした。この時点では、NGOもしくは草の根レベルでの活動に焦点を絞っていたように記憶しています。
 大学院に通いながら、ぷれいす東京で仕事をしていました。ぷれいす東京では、直接患者・感染者(当時はPWA( People Living with AIDS)といった)のサポートをするリビングセンターで仕事をしました。主な活動は、週2回の昼食サービス、グループミーティング、外から講師を招いての新しい治療法や社会サービスに関する勉強会、外に出ての食事会、病院の付き添いなど直接サポートをする人のコーディネートなどでした。女性の感染者の強い要望を受けて、彼女たちが勉強会を兼ねた泊りがけ研修を開くお手伝いをしたり、ニューズレターを発行したり、規模をさほど大きくなかったものの内容的には充実したものでした。また、助成金の申請、受領、報告の準備も、そのときは大変でしたが、現在、国連人口基金で仕事をする上で、いいトレーニングになりました。
治療に関しては、抗HIV薬のカクテル療法の治験がようやく始まったという段階で、医療従事者でないことに無力さを感じる場面も多々ありました。また、私よりかなり経験のあるもう一人のスタッフと二人で、さらに経験のある年長のボランティアスタッフたちの意見を取りまとめながら、リビングセンターを運営していくのには苦労もありましたが、当時の日本のエイズを取り巻く状況を直に体験でき貴重な経験でした。
 「アカデミアと市民活動の架け橋となりたい」と二次試験の面接で大見得を切って進学した大学院の方といえば、まだまだ学科を設置して間もなく、授業はあまり満足のいくものではありませんでしたが、たまたま、タイでのPWAに対する差別に関する調査や、エイズ国際会議を通じて知り合った国際NGOのスタッフとの共同研究に恵まれ、日本以外でもエイズに関する仕事についても触れる機会をもつことができました。
大学院では、国際協力のためのプロジェクト及びプログラム管理に関する手法を学び、これを日本のエイズNGOでも是非活用するべきだ、と考え、エイズ関連NGOで働く仲間と相談し、国際協力で利用しているプロジェクト管理研修モジュールに手を加え、国内のエイズ問題に取り組むNGOの研修会で実施したこともありました。どれほど参加者にとって役に立ったのかはよくわからないのですが、当事者を含む参加者による問題分析・現状分析などを系統立てて行うことが少ないエイズNGOの運営に当たって、このような管理ツールやディスカッションツールは、有効であることがよく分かりました。
 サブスタンスとマネジメントなど様々な側面から日本のエイズの問題に関わることができ、NGO関係者、医療従事者、行政関係者などとネットワークも広がっていく中で、この分野に、また違った面から取り組んでみたいという思いが強まってきました。国内の援助機関や国際機関で、国際協力という文脈で取り組めないか、そして、国際協力で経験を積んで、いつか日本でのエイズ関連の仕事に戻りたい。20代後半に差しかかった頃、そんなことを考えていました。


第2回 JPO応募編
 JPOという制度があることを知ったのは、アメリカへの学部留学中に「国際公務員を目指す留学と就職」という本を通してでした。大学院へ進学することを考えていたので、私が興味のあった分野の大学院教育に関してかなりよく書いてある本だと思い、暇なときに目を通したりしていました。
 結局、日本国内の大学院に進学しました。大学院進学後間もなく、ユニセフ東京事務所に勤務するお二人から国際機関で働くことに関しお話を伺う機会がありました。お二人とは、アイオワで3年間通った小さな大学(グリネル大学)の数少ない日本人の大先輩Aさんと私が通う大学院の非常勤講師として出講されていたBさんです。「草の根から社会を変えていく」ことばかり考えていた私としては、「はあ、そういう仕事もいいかもね」くらいの感覚でしたが、Bさんは、「是非JPOに応募してユニセフで仕事をしてください、あなたのような方に是非来ていただきたい。」と力説してくださいました。今にして思えば、社交辞令だとしても、暖かい言葉をかけていただいたのに、「あ、はい、わかりました」程度の反応だったと記憶しています。
 まさか8年後、Bさんと、NYの国連日本人職員会幹事会でご一緒することになるとは思いませんでした。また、一月ほど前(2004年9月)、あるパーティーでBさんにお会いしたとき、彼は、日本の大学教授(元UNDP職員)に「あききさんには是非ユニセフに来てもらいたいと言っているんですよ」とおっしゃってくださいました。社交辞令も8年越しとなると、なんとなくうれしいものです。
なお、Aさんは、現在では私の大ボスで、仲良くさせていただいています。
 そういう調子でしたが、大学院の設置趣旨に、「国際公務員を目指す云々」というのがあり、なんとなく「英語力のある人は受けてみたら」という雰囲気だったこともあり、大学院2年次の初め、JPO試験に応募しました。書類審査に合格しましたが、語学試験の日程が、国際会議の日程と重なってしまっていたので、受験をあきらめました(かつては、国連英検による一回の審査でした。)。そのときは、国連のハビタットか、バンクーバーのエイズ会議かいずれかでしたか、よく覚えていません。結局、翌年、98年の春、大学院博士課程進学直後、改めてJPOに応募し、書類審査、語学試験を無事に合格し、いざ面接となりました。
 面接には、まともな就職活動をしたこともなかったのでリクルートスーツも持っておらず、私が持っている中で一番「よそいき」と思われる服装で出向きました(ちなみにジャケットにパンツです。)。先日も懇意にしている日本人の元国連職員の友人から「あのさ、出勤初日普通だったら、日本人は大体リクルートスーツとかでくるじゃない、でもあききは違ったのよね。とってもラフな格好だった。」といわれました(「私としては、一張羅だったのよ」と言っておきましたが。)。私の仕事は、渉外担当でもなく特に部外の人に会うことがほとんどないので、かなりカジュアルな格好で出勤しています。
 面接の時間を確認して、それに間に合うようにと、タクシーで面接会場に向かいましたが、渋滞に巻き込まれ、しかも、文書を確認したら「面接時間の20分前に集合してください。」と書いてあるのに初めて気がつきました。その後のことは、あまりよく覚えていないのですが、冷や汗をかきながら、外務省国際機関人事センターに到着すると、「あー、たかいさん、お待ちしていました、さあ行きましょう。」と、案内の方が小走りで迷路のような廊下を通り、エレベーターに乗って、さらにまた迷路のような廊下を通り(これはその当時の印象)面接会場まで案内してくれました。結局遅刻したわけですが、一息つく間もなく、面接が開始されました。
 
 面接室に入室すると、女性一人を含む3人の面接官の方がいました。最初の質問が「何かスポーツをやっていますか。」というものでした。「ありゃりゃ、もうだめなのかな?遅刻したし。」と思いつつも、当時趣味でやっていた、草ラグビーの話をすると面接官の方が非常に驚かれていたようでした。「フォワードですか?」「プロップです」「怪我をしたりしませんか」「首を痛めたりすることがあります」「スクラム大変そうですよねえ」(何の話をしてるんだ!)。後々から考えると、飛び込んできた私の緊張を解くための質問だったと思います。
 面接での質問内容はあまりよく覚えていないのですが、最後のほうの質問に「JPO終了後国連で仕事をしていきたいと思いますか?」という内容のものがありました。それに対しての私の答えは、「今の時点では、わたしが国連でどのような貢献をできるのかがよくわからない、JPOの期間を通して、私の能力によってなにか貢献ができるようであれば、できれば、引き続き国連で仕事をしていきたいと思います。しかしながら、今の時点は、私のような人材が必要かどうかもわからないのでよくわかりません。」といった内容が曖昧で、しかも国連で生き残っていこうという強い意志が感じられない返答をしました。
 実は、これでもまだ、面接用の「よそ行き」の発言でした。本音は、国連で2,3年経験を積んで、スキルを磨き、ネットワークを作って、NGOに戻る、というものでした。
 これに対し、面接官から、やさしく「あのね、あなたね、こういうときには,『どんなことがあってもがんばって残るように努力します。』というぐらいの勢いで来てもらわないと。」といった内容のコメントを丁寧にしてくださいました(多分、これが、Japanese interviewのルールなのでしょう。)。
 面接の手ごたえから、おそらく不合格だろう、遅刻したし、まあいいか、他にも仕事はあるだろう、と思っていましたので、しばらくして補欠合格の通知をいただき、さらに何ヶ月か後、繰り上げ合格の通知を頂いたときは、うれしいと思う一方、「あれ、本当にいいのかしら?」という思いもありました。 

第3回 派遣先決定編
 前回も最後のほうで書きましたが、遅刻して面接を受けたJPO試験の結果は補欠合格、その後1999年の春先に繰り上げ合格の通知を受け取りました。
とりあえず、繰り上げ合格がないものとして、就職活動をし、1999年7月から3ヶ月東北ブラジルのJICAの東北ブラジル公衆衛生プロジェクトに短期専門家として派遣されることになり、1ヶ月間のポルトガル語の研修に通いつつ、終末期を迎えて入院していた母方の祖母の付き添いをするために、電車で2時間半ほど離れた神奈川の海辺の町まで1週間に2回ほど通ったりしていた時期でした。
 ですので、国際機関で働くということがピンとこなかったのですが、選択肢の一つとしてはやはりキープしておきたかったので、派遣の意思表示を秋まで待ってもらい、派遣を年度末ギリギリまで先延ばしにしてもらうよう、外務省国際機関人事センターの方に相談しました。すると、あっさりと了解してくれました。
 ブラジルのプロジェクトでの私の主な業務は健康教育の教材作りということで、高血圧予防のパンフレットのドラフトを準備したり、プロジェクト終了評価のための資料作りなどをしているうちに3ヶ月があっという間に過ぎていきました。5年間のプロジェクトの最終年ということもあって、店じまいモードでしたが、志が高い専門家の方々との出会いもあり、いろいろな意味でいい勉強になりましたし、小学校の卒業時に「ブラジルに行きたい。」とどこかに書いたことが現実のものとなって、楽しむことができました。愛読書の一つであった「悲しき熱帯」のほんの一隅を見ることができたような気がします。
 ブラジルから帰国して、研究所での仕事を始めたころ、プロジェクト終了時評価でブラジルに来ていたJICA職員の方からのアドバイスもあり申し込んだJICAのリプロダクティブ・ヘルス専門家養成研修に参加する機会がありました。これは、国内での専門家の方による研修(座学)と海外での研修の2本立てで、JICAからジョイセフ(家族計画国際協力財団)が委託されてプログラムを作っているものでした。海外研修はベトナムで、NGOであるジョイセフがJICAとの協力でゲアン省で展開しているリプロダクティブヘルスプロジェクトの見学、ベトナム女性連合やUNFPAベトナム事務所への訪問などが含まれていました。ジョイセフのプロジェクトに関しては、ODAにおけるNGOとの連携という私が非常に興味をもっている分野の実際の活動の様子を垣間見ることができた良い経験でした。
 ブラジルから帰国後の研究員の仕事の契約が短期間で切れることもあり、また、ある程度の期間フィールドに出て仕事をしたいと考えていましたので、外務省国際機関人事センターに連絡をとり、春先から保留にしていたJPOの派遣の可能性を相談しました。とにかくエイズに関わる業務ができればいいので、派遣先希望は、UNAIDS、UNFPA、UNICEFを挙げていました。UNAIDSは受け入れ態勢が整っていないとの理由から派遣を断念し、UNFPAかUNICEFのどちらか、ということになりました。なお、UNAIDSへは、次年度からJPOが派遣されることになったようです。人事センターからは、UNICEFに派遣される可能性のある人で、国際機関に関する知識が十分でなさそうな人には、UNICEF東京事務所の方と色々相談に乗ってもらうことが通例だったそうで、アポをとって相談しに行ってくださいという指導を受けました(最近はこのようなことはあまりやっていないようですが。)。
 ユニセフがエイズでどのようなことをやっているのかはよくわかりませんでしたが、とりあえず、連絡をしようと思っているところへ人事センターから連絡があり、「UNFPAはどうですか?」とのこと。それに対する私の返事は「エイズに関わる仕事であれば、どこでもいいですよ。」でした。しばらくして、アパートにファックス用紙が束になって届いていました。UNFPAの4ポストの中からひとつ選んでくださいとのことでした。
 リストには、UNFPAの地域技術協力事務所の3ポスト(バンコク、カトマンズ、ハラレ)とニューヨークの1ポストでした。ニューヨークのポストが提示されるのは意外でした。UNFPAには地域技術協力事務所(CST=Country Technical Services Team)というのが世界中9地域に設置されていて、各国事務所からのニーズに合わせて各分野(人口統計、リプロダクティブヘルス、アドボカシー、ロジスティックスマネージメント、現在ではそれに加えてエイズ)の技術協力をする専門家を派遣しています。技術専門家はだいたいL-5(概ね課長相当)そしてディレクターがD-1(概ね部次長相当)です。ファックスの受領確認の電話をすると、人事センターの担当官は、「CSTには出張旅費やプログラムの予算がないので、プロジェクトの評価・モニタリングのミッションにあなたが行くために十分な資金がないかもしれない」と教えてくださいました。と、今ここに書いている時点ではそれがどういうことか理解して書いているのですが、その話を聞いたその場では、「ああ、そうですか。」などと答えたと思いますが、実際は何のことだかよく理解していませんでした。当時は、各機関とも財政危機に直面していたようです。
 かつてUNFPAバンコクのCSTでFASIDインターンシップ・プログラムに参加していた親友に相談し、それがどういうことなのか説明してもらいました。彼女の場合は上司のサポートや、インターンシップからのサポートもあり、派遣中の半年間に何回か、上司とともにプロジェクト評価ミッションなどを経験していたようでした。これでも予算があまりないということで、「うーーんどうだろう、CSTは。それに他の人はL-5以上の人だから、あなたは小間使いになると思う。」とのアドバイスでした。
 私としては、国連で長く勤めようという意識がなかったので、それだったら、本部に行って、UNFPAという国際機関がどのように回っているかを見てこよう、ということと、何度か訪れたことのあるニューヨークが非常に気に入っていたので一度暮らしてみたかったという二つの理由から、ニューヨークを選ぶことにしました。また、ニューヨークのJPOポストの上司の1人は、偶然にも相談した親友のバンコク時代の上司で、「彼女は厳しいけれど、彼女に鍛えられたら、どこでもやっていける。きちんとしているし、ぐうたらなあなたにはいいと思うよ。」というアドバイスもありました。
 こう書くと、決定までに時間がかかったようですが、実は、ポストの提示があり、ファックスの受領確認の電話をした数時間後、その日のうちに、「ニューヨークでお願いします。」と人事センターの担当官に電話口でお伝えしたのでした。人事センターの担当官は、「ニューヨークですか?」と言った後、しばらく絶句気味の間を置いて、「もう少し考えて、明日こちらに電話をください。」とのことでした。その担当官の同僚が、「あいつにニューヨークに行かせるのは遊びに行かせるようなものだ。もう一度よく考えてもらえ。」と電話口の後ろで叫んでいたそうです。
 翌朝、ぐうたらな私が珍しく朝一に「一晩よく考えてみましたが(本当はあんまり考えてないけど)、やっぱりニューヨークでお願いします。」と連絡し、私のニューヨーク派遣の手続が開始されることになりました。

第4回 マイ・ロスト・シティー編
 ニューヨーク行きが決定し、2000年の3月26日に前職を退職し、28日ごろに出発して30日からUNFPA本部で勤務をすることになりました。  新しい仕事の業務内容もよくわからず、ちょっと心配でしたが、アイオワのグリネル大学時代に仲良かった友達二人が大学院を修了し時を同じくしてニューヨークに引っ越してくることがわかり、古い友達に会えるのが楽しみ、と思いながらニューヨークにやってきました。
 さて、初めての出勤日、UNFPAへと向かいましたが、UNFPAの建物のなかで、一体どこに行ったらいいのかもわかりませんでした。JPOのポストが提示されたときに受け取った非常に簡単な職務記述書に上司の名前が書いてありましたが、それだけをたよりに、とにかくUNFPAの建物に入りました。結局二人の上司のうち、一人は不在、もう一人は、「あれ来たの?いつ来るか知らなかったわ」という対応でした。しかもその上司のアシスタントとおぼしき人は、「まったく、新しい人がくると、仕事が増えて大変だわ」と、言わんばかりでした(のちのちこのアシスタントがあまりに仕事をしないため、私が秘書的仕事を沢山させられることになってしまいました。)。ただ、人事部のサポートスタッフのおばちゃんが非常に親切にしてくれて、それに救われました(のちのちこのアシスタントが、私の重要な仕事のカウンターパートになりました。)。
 私の勤務先である技術支援部はUNFPAのプログラム全体への技術面での支援をするところです。プログラム実施国に駐在するプログラム担当官は、ジェンダー、HIV/AIDS、人口開発などすべてに専門家であることは不可能で、プログラムの策定、実施、評価に当たって、専門的見地から助言を行うのが、技術支援部の仕事です。そのためか、経験豊富な専門家が中心で、JPOの受け入れはほとんどなく、私は、部内の二つの別々な課に所属する二人の上司の仕事を50%ずつ手伝うという中途半端な状況に置かれていました。このため、私自身、何をしていいのか、混乱していました(しばらくして、インド人の上司の下で100%働くことになりましたが。)。
 実際のところ何をしていいのかわからず、また元来ぐうたらな私は、部内の会議にでたり、秘書的な仕事を手伝ったり、サポートスタッフの方々とのくだらない意見交換(井戸端会議)に花を咲かせたり、というような感じでだらだら日々を過ごしていました。上司が二人いるため命令は錯綜するし、他の部が相手にしてくれなかったりするし、エイズ関わる組織のコミットメントの低さが日常の業務にかなり反映されており、わたしのモチベーションを下げる材料には事欠きませんでした。
 だらだらとした仕事を続けていて、「これでいいのか。。。」という気持ちもありましたが、イーストビレッジ、チャイナタウン、グリニッジビレッジ、はてはクイーンズと、食べ物大好きな私は、主に国連外の友人のネットワークを広げながら、レストランの開拓に脇目も振らず邁進しました。つまり、ゲームにはまる子どものように、NYにはまり、現実逃避をしていたのでした。
 何もしないまま、JPOの任期を終え、日本に帰るのかしら。2、3年後の未来に感じるであろう喪失感が実感されるようでした。でもまあ、どこかNGOで仕事でも探せるかな、などと思っているうちに月日がどんどん過ぎていきました。
 私の(唯一の)上司となったのはインド人女性で、仕事をキチッとする有能な方でした。前にも書いた私の親友がインターンをしていた時のスーパーバイザーです。非常に細かくて、締め切りに厳しい人です。インドでは地域の保健所長をしていて、その間に、公衆衛生の修士号、そして博士号をそれぞれ、イギリスとアメリカでとり、その後国連に転身したという面白い経歴をもつ、専門がリプロダクティブヘルスのメディカルドクターです。エイズに関しては、性行為感染症のひとつとしての知識は十分にあったとは思いますが、エイズプログラムの立て方や、マネジメントに関しては、まったくの素人といっていいほど、バックグラウンドがありませんでした。しかしながら経歴からもわかるとおり、非常に勉強熱心な人で、知らないことは調べて自分の知識にする、という当たり前といえば、当たり前ですが、ついつい目立つ仕事ばかりしたがる多くの国連職員が忘れがちなことを地道にできるタイプの人でした。
 国連でも少し長い目でみれば、目立つ仕事をしたがる人よりも、結局地道に結果を出していく人が評価されるということを彼女が身をもって示してくれたことは、私にとって最良のオリエンテーションだったと思います。「仕事は地道にやっていれば、見ている人はそれをみていて、きちんと評価してくれる。」というのが彼女の考えで、そういう意味ではある種日本人の価値観にかなり似たものがありました。目立ちたがりの上司の下でJPOをしたら、マイペースの私でも、ついつい目立つ仕事ばかりやりたがる国際公務員になってしまっていたかもしれません。
 着任して数ヶ月たったころ、UNFPA内部でも組織全体のエイズに関わる戦略を策定しようということになり、まず第一回目のミーティングを今はなきワールドトレードセンターで開きました。方向性としては、HIV感染の予防に重点をおこうということで、戦略策定を詰めていくことになりました。
 2001年6月に国連エイズ総会が開催されることになっており、国連全体で、「エイズはお金になる」・・・じゃなかった、「エイズは重要」という意識が一層高まりつつある時期で、部署としての仕事が増えつつありました。実際にUNAIDSからの資金を活用し、CSTのアドバイザーを雇用したり、NGOと共同でプログラム用のツールを作成したりと、だんだんと仕事が増えてきました。赴任後しばらくHIV/AIDS担当の国際職員は、上司と私(ただし50%)の1.5人だけ。キチッとした上司からのプレッシャーとともに、仕事が増えてきている切迫感は高まってきました。
 それに従って、少しずつ、仕事に真面目に取りかかるようになりました。UNFPAは国際機関としては小さいとはいえ、私が東京で働いていたエイズの団体に比べればはるかに大きく、当然のことながら、予算規模は大きいわけです。ところが、私の所属は、技術専門家集団であるためか、プログラムや組織のマネジメントが、お世辞にもうまくいっているとはいえませんでした。世界中の税金や寄付を使って運営されている組織がこんなものでいいのだろうか?と真剣に考えました(どの国連組織も程度の差はあれ似たようなもの、とはなんとなく思っていましたが、見ると聞くのでは大違いです。)。
 私自身は、プロジェクト管理、財務管理、組織管理(新たなポスト設置)、人事管理(その採用手続き)など、多方面に渡るかなり煩雑な手続きを行わなければなりませんでした。他の技術担当官がそういったことをほとんど知らない上、肝心のファイナンスアシスタントなどのサポートスタッフ(高いポストに就いている人も含む)に、掘り下げて質問すると、細かい規則などほとんど理解していない、ということがわかりました。財務管理をはじめとするガイドラインを参考にしながら、日々の大量の「雑用」(ほとんど本務となってしまっていた)をこなしていく毎日が続きました。
 HIV/AIDSにこだわって選んだ仕事だったものの、この頃から、マネジメントも結構向いているかも、と思うようになりました。効果的な国際協力をするのには、しっかりとしたマネジメントが基礎になっていることは、少し考えれば誰でもわかることですし、大変重要なことでもあります。
 赴任後1年、UNFPAでの仕事にも慣れ、雑用は多いとはいえ、仕事もそれなりに充実してきました。インド人上司からは、専門知識、情熱に裏打ちされた合理的な指導に加え、時には厳しい叱責もありましたが、今にして思えば、よくまあ我慢してぐうたらな私に付き合ってくれたと感心します。感謝感激雨あられ。

第5回 ポストは誰のもの編
 UNFPAのHIV/AIDS担当の国際職員は、2000年には、インド人上司と私の2人、現地採用のサポートスタッフはほぼ0人(サポートスタッフの支援がなかった)という陣容でした。当初は、HIV/AIDSという独立したブランチはなく、リプロダクティブヘルスブランチ内の小さなチームからはじまって、クラスター、ブランチと拡大していきました。上司は、UNFPA通常予算(通称コアファンド又はコア)により設置されたP-5ポスト(課長相当)に就いていて(後にD-1(部次長相当)に昇進)、私は、JPO制度を利用した通常予算外予算(通称ノンコアファンド又はノンコア)によるL-2でした。それが、2004年後半には、国際職員9人、サポートスタッフ4人の大所帯になりましたので、改めてみると、5倍以上の規模です。
 少し解説すると、通常予算によるポストは原則としてPポスト(正規職員ポスト)、通常予算外予算によるポストは、Lポスト(プロジェクトポスト)又はALDポスト(期間限定任用ポスト)が中心になっています。Pのポストは、UNFPAの場合原則として通常予算により設置されるものなので、執行理事会に予算書を提出し、それを承認してもらう、という手続きが必要です。通常予算は、2年に一度策定されますが、急激な変更が行われるのは稀です。Pのポストに就いている職員の身分保障はそれなりに強く、必要がなくなったからといって専門性のないところに異動したり、又はクビにしたりするわけにいかないことがその主な理由です。したがって、エイズに対する仕事が増えたからと行って、通常予算ポストをすぐに増やせるということはありません。ですので、HIV/AIDSブランチで急増したポストのほとんどは通常予算外の資金によるものです。
 2000年前後から、国連エイズ特別総会など国連を挙げての行事などもあり、ドナー国(拠出国)のエイズに対する関心は高まり、それが各国からの拠出に結びつくとともに、UNAIDSから各機関への分配資金の増額などがあり、UNFPAにおいても、エイズ対策に使えるお金が増えてきました。エイズのプロジェクトに関して、人間の安全保障基金などに応募してさらに追加資金を調達することも考えましたが、趣旨に合致するプロジェクトドキュメントを書く自信がなかったこともあり、とりあえず、UNFPAがUNAIDSから受けとった資金をきちんと使うことに集中することにし、とにかく人員が必要なので、部内のポスト設置に取組みました。私のJPO期間中、UNFPAのエイズ担当部署では国際職員5ポスト、現地職員3ポストが新たに設置されました。これをインド人上司と二人で次々と作っていったのは非常にいい勉強でした。前回も書いたとおり、上司は技術専門家なので、職務内容を考えるのはお手のものなのですが、国連の採用のシステムに関しては、ほぼ素人で、あてになるサポートスタッフもおらず、二人で人事部に相談したり、職員規則やマニュアルなどを読んだりして、手探りの状態からはじめたポスト作りがつづきました。
 ポストを作るのには、いったいどのような手続きが必要かというと、資金の目途が立つことが前提ですが、まず職務内容書(TOR)を作成します。UNFPAは、Lポストを作り過ぎているということから、国連のACABQ(行財政問題諮問委員会)に目を付けられていたので、LポストをつくるにもUNFPAの事務局次長(管理担当)の承認をとる必要がありました(最近はALDにもこのプロセスが必要になってきています。)。同時にLポストの場合は、その職務内容がどのレベルに分類するかについて人事部を通して判定してもらわなければなりません。国連にはその判定をする人(Job Classifier、コンサルタントとして登録している場合が多い)がいて、その判定をクリアする必要があります。この判定になかなか承認がもらえず時間が掛かったポストがいくつかありました(判定は、職務内容書を基礎に、部下の人数、職務の影響度、困難度などをポイント化して決定することになっています。)。
 その後、人事部により空席公募が出されます(出さないときもある)。Lポストの場合、だいたいは2週間ほどで締め切りが設定されています。人事部が履歴書や国連用の履歴書(P-11フォームといわれています)を受付け、それがそのまま担当部署に回ってきます。ここで、スクリーニング(書面審査)の作業が始まります。実はUNFPAで仕事をはじめてまもなく、各地のCSTのHIV/AIDSアドバイザーのポスト(L-5レベル:課長相当)の応募者のスクリーニングをする機会がありました。スクリーニングに際して特に決まったフォーマットなどはないのですが(国連事務局にはあると聞いています)、職務内容書に書いてある学歴・資格などの必要条件を満たしているか、また、応募までの職務内容がどれぐらいポストの職務内容に関連するかなどをみながら判断して、時にはポイント制でスクリーニングを行います。上司のスクリーニングを手伝っているうちにだんだんとコツがわかってきました。場合によってはポストを内々で約束されている人がいることもあり、そのことを知らされずに、スクリーニングをし、あとあとトラブルになったこともあったようです。
 履歴書には、大学の教員のポストに応募するかのように、長々とリサーチの経験を書いているものもあれば、長いタイトルをダブルスペースですべて並べて作成しているため履歴書が15枚ぐらいになってしまっているもの、手書きのP-11の字が汚くMD(メディカルドクターの略)と書いてある以外は判読不能なもの、明らかにまったく関係ない仕事しか書いていないものなど、地域柄や人柄(といっても会ったことはない方々なのですが)がよく表れていました。
 さて、今度は、各地のCSTではなく、自分たちの部署のスタッフ募集の際も同様のスクリーニングが待っていました。国連の場合、職員規程4.4にも書いてあるとおり、空席への任命に当たっては、既に国連の職員となっている者に対し、できる限りの配慮(fullest regards)を行うことになっています。つまり、UNFPAの他の部局からの応募を優先することが求められています。当然職員はそのことを知っているし、ちょっとでもよさそうなポストに対しては、着任早々であっても応募するありさまで、私がスクリーニングする履歴書も部内の職員のものばかり、という場合もあります(2週間の公募期間は短いのでしょう。みなさん見落としなく応募しましょう。)。
 国際職員のポストは、上位のランクの職員が面接を行うことになっており、面接はもちろん私の上司が担当しましたが、サポートスタッフである現地職員のポストに関しては、募集部署で一緒に仕事をする国際職員がかかわったほうがいい、ということで3つのポストの選考に面接官として参加しました。その際には、人事部の高いレベルに就いている現地職員や他の部署の現地職員と協力しながら選考を行いました。また他の部署のALDの国際職員の選考過程に何度かかかわることもあり、面接での質問の内容や、面接官としての面接の進め方、また面接を受けるときの姿勢、実際の返答内容など、限られた業務内容及びレベルに関してではありましたが、内側からそのプロセスに参加することができたのは、非常にいい経験になりました。
 ところで、JPOから正規職員等に採用されるためには、自分で自分のためのポストを作ることが最も確実な方法です(こういう機会に恵まれるのは、運としか言いようがありません。)。ですので、上司と私とで準備した新しいポストの専門家の空席公募が出るたびに、UNFPAの先輩たちからは、「このポストはあききのでしょ?」と聞かれました。これに対しては、とりあえず「まあそのうちにね」と答えていました。もともと国際協力で経験を積んで、いつか日本でのエイズ関連の仕事に戻りたいと思っていたので、自分の中では、「JPOが終わったら、日本に帰ろう」という気持ちが強く、自分で自分のためのポストを作るつもりはありませんでした。

第6回 居残り勉強編
 JPOの任期2年は短いと思います。しかも、本当に仕事をした、と実感できたのはそのうちの1年くらいでした。幸い外務省は、JPO希望者(全員)に3年目への任期延長をしてくれるというので、国連代表部を通じて延長をお願いしました(現在は、任期延長がないとのこと。3年目があるとないとでは、JPO後の残留率に格段の差があると思われるのですが。)。正式の延長許可が下りたとき、国連代表部の担当者から、「居残り勉強を命ず」と言われました(失礼な!)。
 私のJPO在任中には、エイズ特別総会があったり、アジアエイズ会議への出張、その間には2001年の9月11日のテロ事件もありましたが、3年目もそれなりに忙しく働きながら、ニューヨーク生活を楽しみました。もともと国連にあまり未練はなかったので、3年目の秋を迎える頃、そろそろ日本に帰る準備をしないといけないなあ、と考え始めました。とりあえず休学している博士課程に戻って研究をして、論文を書かないと。就職活動もしよう。NGOかな。経験もそれなりに積んだから、JICAの専門家の口もあるかもしれない。赴任地はNYだったので食べ歩きに精を出したため貯金は全くしなかったけど、気合を入れて貯めた未消化有給休暇のキャッシュバック(60日分)と離任手当で、しばらく食いつなげるだろう。ニューヨークは他の赴任地に比べて、ご飯がおいしいとはいえ、ああ、日本の御飯が懐かしい。
 そんな感じだったので、国連に正規職員として残りたいという意思表示はしていませんでした。したがって、ポストをどんどん作っていきましたが、自分のためのポストをつくろうとは思っていませんでした。しかし、後から考えると、周囲には、「JPOは国際機関に残りたいと考えている、あききはJPOだ、故にあききは国際機関に残りたいと考えている」という三段論法(?)が成立していたようでした。また、仲良くしていた欧米人の幹部が、「あききはUNFPAに残るべきだ。そのためなら協力する。」とことあるごと言ってくれていました。残るつもりはありませんでしたが、これはこれで有り難く受け止めていました。前回書いたポスト作りで、作ったポストに採用された同僚は有能でとっても個性豊かではありますが、いい人たちで、「来年はあききのポストをつくろうよ。」と声をかけてくれたりしましたが、「まあまあ、私は、日本に。」「あれ、日本で仕事あるの?」「イヤーないよ、でもとりあえず帰ってみようかな」などというやり取りが何度かありました。
 そんなある日、日本とUNFPAの協議の場で、日本の外務省の幹部がUNFPA事務局長に対し、「日本人を増やして欲しい」と働きかけ、事務局長は、「JPOを採用してもいいと考えている」という趣旨の発言をしたらしいことが伝わってきました。しばらくして、ある幹部から、私が採用する候補に挙がっているという話しが降ってきました。UNFPAは、過去3年以上JPOからの採用がないという国際公務員になりたいJPOにとってはひどい状態で、外務省としてもUNFPAにJPOを送ることには積極的でなく、当時UNFPAのJPOで任期切れを迎えつつあったJPOは私の他にほとんどいませんでした。UNFPAに見切りをつけてJPOの任期途中で機関を変える人もいました。
 日本で、おいしい御飯を食べることで頭が一杯だった私は、国連代表部の担当官に、「あ、あのわたしは、帰国するつもりなんですが。」と相談しました。そうしたら、またもや「居残り勉強を命ず」とのことでした。何年居残り勉強をさせるつもりなのだろうか?いろいろ相談し、いろいろ考えました。
 ブランチのスタッフも増えてきたし、同時にHIV/AIDSに対するUNFPA全体の取り組みも少しずつではあるけど、進んできていました。プロジェクトがだんだんと本格化していくなかで、そのための人を増やしただけでJPOを終え帰るのはもったいない気もしてきました。いくつかあるプロジェクトが軌道に乗れば、もっと積極的にプロジェクトに参加できるだろうし、これからは、フィールドへの出張も少しは多くなるだろうし。管理事務系の仕事が思ったより得意し楽しいと気づいたのもこのころで、もう少し国連に長くいて、今度は違うキャリア・トラックで仕事をしてみるのもいいかな。と、思い始めました。国連とNGOとの協調、community involvementなど、自分の興味があるし、かつこれまで取り組んできた分野の仕事も、もっとやってみたい気がする。だんだんと、まあ残ってもどうにかなるかな、と、気持ちが固まってきました。そうそう、ニューヨークにもたくさん新しいレストランが増えてきて、まだまだ食べつくしたとはいいがたいし。。
 結局、残るという意思表示をすることにしました。
 しかし、残ろうと決めてからトラブル続きでした。
 UNFPAのマネジメントは、日本政府に対し、JPOの採用について、ある程度のコミットをした形になっているけれど、確約ではないとか、ALDでも日本政府との約束は果たしたことになるとかいろいろ言ってきました。私が採用されるとすると、Pポストをもらえるかな、と思ったのですが、Lも怪しいという雲行きでした。要するに採用されるにせよ、上司の協力を仰ぎながら、自分でポストを作るなどして頑張りなさい、ということのようでした。
 ブランチ内にポストを作るだけ作ったので、もう自分のブランチ内に、ドナーからの拠出金でLポストをつくる余裕はありません。上司は、ALDのポストなら作れるわよ、という話を以前からしてくれていたので、これをどうにかしっかりしたポストにする方向で検討し、いろいろ働きかけるなどした結果、結局、少々珍しく数の少ない「通常予算によるL-3ポスト」を設置することになりました。
 さて、選考される立場に立ちました。
 新しいポストは、私のJPOポストの職務内容をそのまま引き継ぐもので、そのような場合、面接を行わないことが通例です。そもそも国連の職員規程及び規則では、Lポストの採用手続きは定められておらず、面接などの手続きを行うことが求められていません。したがって、Lポストで面接するということは、「落とす可能性が十分にある」という意思表示と考えるのが自然でした。通常予算ポストですからJPO経験者等既にALDポストに付いている人や、短期雇用のコンサルタントで働いている人を含めて狙う人が多かったのでしょう。
 落ちたらどうしよう。並行して日本での就職活動をすべきだったか?NGOの仕事の可能性も探っておくべきだった。・・・などと、いろいろと考えていました。(最近は採用手続きに関して透明性を高くするために、ALDもLもほとんどのポストで面接が行われています。)
 仲良しの欧米人の幹部は、ALDのポストをいつでも用意してくれる、ということを約束してくれていましたが、ALDだったら身分は不安定だし日本に帰ろうと考えていました。ALDで仕事を続けて正規職員になる人も多いのですが、そこまでやろうと思うほど国連に魅力を感じていたわけではありませんでした。なお、欧米人の幹部の話しについては、国連によくある「口約束かな」とちょっと思ったけれど、とてもまじめな人で、本当にALDのポストをつくって、別の日本人を採用しました。
 冷や冷やしましたが、結局、書面審査、面接ともにうまく運びました。面接官はよく知っているシニアスタッフだったこともあって、非常にリラックスして受けることができました。面接の方法が変わって、コンピテンシー・ベースになっているはずで、そのための準備をしたのですが、結局旧来のオーソドックスな面接方法でした。
 手続きは、私のJPOの任期が切れるギリギリにやっと終了し、滑り込みでプロジェクト職員になることができました。
 こうして私の居残り勉強が続くことになりました。

明日はどっちだ編
 「フィールド」「草の根」というのにこだわっていたはずが、ニューヨークのUNFPAの同じ部署で4年半働いています。その間に、UNFPA内で私は、ある種独特の地位を固めてしまいました。
 私としては、NYを楽しむにはどうしたらいいか、どこの御飯がおいしいかといった情報源として(ゴシップ集めではありません。)、現地職員であるサポートスタッフとのお付き合いが重要でしたが、仕事を進めていくためにはサポートスタッフの協力は欠かせません。後から考えると、公私に渡る彼ら彼女らとのお付き合いは、仕事をする上で大変意味のあることだったようです。また、今やサポートスタッフとは、いろいろな悩みを共有する仲間になっています。
 あるとき、サポートスタッフの何人かから、「一定期間を過ぎたら現地採用の正規職員にしてくれるはずだったのに、ずっと特別役務契約(SSA: Special Service Agreement)のままだ」という相談を受けました。これについては、私としてどうしようもないのですが、なぜそういう取扱いとなっているのか、背景などを説明してあげたりしていました。
 また、あるときスペイン語圏出身のサポートスタッフが、「タイピングテストに落ちた」と泣きながら私の部屋に駆け込んできました。英語のスペルを正しく打つことができなかったようです。NY採用の正規の「秘書」というタイトルのサポートスタッフになるためには、事務局の秘書試験(Clerical Exam)のほかにタイピングのテストに合格する必要がありますが、彼女は若くて、コンピュータもよく使いこなせるし、特にタイピングが遅いわけでもなんでもないのですが、テストでスペルの間違いが多く、今まで合格できずにいます(今は修正機能があるから、このテストの見直しをするべきです。それよりも、うちのオフィスでは文書作成ソフトを使いこなせる彼女みたいな人が必要なのに。)。というわけで、彼女のポストは、Clerical Examを必要としない、Administrative Clarkというポストに変更しました。
 郵便係のサポートスタッフは、ルールを守らない高圧的な態度の専門職(時にJPOを含む若手職員だったりする)への不満をぶちまけに来ます。
 UNFPAには、ITが得意な人が限られており、部内のIT関係のトラブルシュートは、サポートスタッフに代わりなぜか私が担当しています。もう少し、スタッフのコンピュータの使い方を改善し、UNFPA全体のコンピュータ・リテラシーを高くしていくべきだと考えたりします。
また、予算要求や執行管理についても、財務管理部のやさしい指導により、規則及び規程(rules and regulation)にかなり詳しくなってきており、サポートスタッフのサポートをしています。(これに関しては最近非常に優秀なサポートスタッフがきてくれたのでほとんど私のやることはなくなりました。)
 こういうこともありました。UNFPAには、正規職員(P)とそれ以外の短期契約者等(P以外)の間でたとえランクが同じでも椅子に区別があるのですが、備品管理の担当者が、短期契約者で正規職員用の椅子に座っていた人から、一方的に椅子を奪い、短期契約者用の椅子、しかもボロボロに使い込んでしまったものを押しつけるということが起き、その短期契約者の女性が泣いて抗議するという(情けない)事件がありました。似たような事件が二つあったと聞いた私は、所属する部と事務局長のミーティングの場で事務局長から「他に何かないかしら。」と聞かれたときに、よせばいいのに、事務局長に事態を改善するよう直訴し、事務局長は対応を約束してくれました(以後、椅子のモニタリング担当官とからかわれています―実際は時を同じくしてUNFPA内の親友がまったく同じ件に関して事務局長に直訴したことが判明。)。しかしまだ椅子は届かず。たまにまだ椅子が届いていない仲間たちに「あきき、椅子は来たの?いったいいつくるの?」と、聞かれる始末です。しかも、一部の人は、私が自分の椅子を良いものにしたいがためにやったと誤解しているし。。。
 という調子で、私の部屋は、サポートスタッフの駆け込み寺のような状態になり、いつしか、「スーパー・サポート・スタッフ」としての地位が確立してしまいました。ただし、インド人の上司からは、そんなことばかりしていないで、専門家としての仕事をしっかりやりなさい!とよく注意されていましたが。
 いろいろマネジメントで問題が起こるたび、私だったら、もっとみんなの意見を上手に聞きながら、マネージできるのになあ、なんて考え、マネジメント・トラックに移りたいと思うようになってきました。
 建物管理でもいい。元々建築家になるのが夢だった建物マニアなので、私がやったら、みんなに働きやすい環境を提供できるような気がする。
コンピュータに関しても、任されているうちに、いろいろなことがわかってきたし、IT担当官が新しいテクノロジーを導入するたびに、私がわかりそうなことであれば、ブリーフィングをしてくれるし(彼は、私のいる技術担当部に支部のようなものを作りたかった模様)、上司からは、IT担当だと言われて、部のIT化には相当貢献している。勉強すれば、ICTのマネジメントの分野でもなんとかなるかもしれない。
調達も面白そう。リプロダクティブヘルス(RH)関連製品などの供給を安定的にしていく工夫を行うのは難しいと重いますが興味深いものがあります。
2004年7月にバンコクで開かれた第15回のエイズ会議では、ロジ担当官となり、ホテル、書籍、登録などを中心的に取りまとめ、やっぱりロジはかなり得意だということを認識して、ロジ系のマネジメントにも興味があります。
 それよりなにより、ポスト作りで垣間見た人事管理が大変だけど面白そう。
 しかし、経歴からすると、マネジメントに移るのは相当難しい。
 国際保健の博士課程に一応在学中だけれど、土曜日のMBAコースにでも通おうかと考えました。
 キャリアチェンジは相当の決意と体力が必要なのですが、なかなかいい方法がありません。仕方がないので、キャリアチェンジは、次の次のステップくらいまで我慢することにし、とにかく、差し当たって次のステップを真剣に考えることにしているところです。
 国際機関の世界でスムーズに仕事を変えるためには、ネットワークと能力が必要です。
 ネットワークについては、国連エイズ総会を初めとして、さまざまな会議やワークショップに参加し、国際機関でのHIV/AIDSの世界に知り合いが増えました。94年の横浜会議からの知っている世界中に散らばっているエイズ関連団体の仲間たちとも、いろいろなところで再会し、仕事の情報を交換します。草の根の仕事を続けている人もいれば、国際機関で働いている人もいるし、母国の政府アドバイザーになった人もいます。なかには、国連代表部に赴任してきたり、外務省で勤務することになった人もいます。国際機関のHIV/AIDS関係のインナーサークルにどっぷり浸かっているような感じです。私のキャリアについて、心配してくれる人、支援してくれる人、相談できる人は、HIV/AIDSの世界には幸い数多くいます(と、同時に、もう10年もずっとHIV/AIDSの仕事をしていることに気がつき、ああ、もっと勉強しておくんだった、と反省してしまいました。)。
 となると、私に何より必要なのは、「能力」ということになります。
 大学留学中もどちらかといえば、理系でしのぎ、大学院でもあまり鍛える機会がなかった英語の文章力を鍛えたい。ついでに日本語の文章力も鍛えたい(というわけで、皆さんには駄文を読んでいただいていますが)。新しい上司からもアドバイスのあったとおりパブリックスピーチ能力も鍛えたい。
 採用の審査で訴求力のあるのは、英語以外の言語かな、ということで、行き着いたのがスペイン語の集中コースでした。現在、国連事務局のコースに毎朝通っています。途中でやめた中国語は読める程度(といっても多くの日本人が読めますが)。チャイナタウンで広東語(?)や北京語(?)で道を聞かれることが多いのですが、「不會説中國語」と答えてもしつこく食い下がられ、「我是日本人」と言いながら逃げるぐらいの程度です。ブラジル派遣時にちょっと勉強したポルトガル語は日常会話程度。それぞれ仕事に使えるようにしたいものです。
 そんななか、1年ほど前にUNAIDSに移ったインド人の元上司が私の部屋にやってきて、「来年7月の神戸会議が終わったら(Pポストで)フィールドに出ることができるよう、準備をしなさい!「モニタリングと評価」、得意の情報整理及びコンピュータを利用して「Strategic Information」に関して、独学でいいからしっかり勉強しなさい!」とのこと。相変わらず指示が具体的だなあ、などと考えながら、よっこらせ、いろいろ文献を読んで研究しようという気持ちになりました。確かにUNICEFのような大きな事務所でHIV/AIDSを専門に担当するなら話しは別ですが、HIV/AIDSだけで、小さなUNFPAの事務所に赴任するのは難しいところです。ただ、元上司のいうとおりに事が運ぶ可能性はというと、そんなに高くないような気がします。
 手っ取り早いのは、どこかに出向してそこで広めの経験を積むことなのですが、なかなかそれも難しい。私はLポストに採用されたのですが、Lという身分は中途半端です。原則としてどこかに出向した場合、身分が切れてしまいますので、戻ってくることもままなりません。ですので、Lの身分だと、他の機関などでチャレンジをするインセンティブが低くなってしまっています。
・・・仕方がない、他の機関のPポストに応募しよう。
 UNICEFに応募しようかな、などと考えたりするけれど、あの機関は、フィールド重視なので、フィールドを経験してからでないと難しそう。でもとりあえず応募はしておこう。
 UNDPの採用ミッションに応募したけれど、2年連続して書面審査で不合格。悲しい。面接くらい受けさせてくれても・・・・。
 いつかは一度PKOミッションで働いてみたい。その場合はやっぱマネジメントがいいな。どこかでPポストがとれたら、真っ先にPKOミッションへの出向を希望しよう。
「100ポスト応募キャンペーン」でも張ってみようかな、100のポストに応募してそれでもどこからも音沙汰がなかったら、しばらくはNYにとどまるしかないのかな。
 日本に帰ろうか。JPOの任期が切れる2年前はまだよかったかもしれないけれど、今となっては、国内のNGO関係者からは忘れ去られているかもしれない。いずれにしても、日本に戻ると一からやり直しという感じがする。
 JICAの専門家の口があればいいと思うけれど、そううまくはいかいだろうなあ。
 日本に戻るのであれば、博士課程に戻り研究に邁進しないといけない。長く国連職員として仕事をされて、大学の先生になった方々にもお会いする機会があるけれど、このぐうたらな私が研究職・教職として勤められるとは考えにくい。いろいろ考えると、日本に帰る決心もつかない。・・・
心は千々に乱れます。明日は、どっちだ。


連載を終えて:
第7回までお付き合いくださった方ありがとうございます。なんだか最後はちょっとはちゃめちゃになってしまいました。国際機関で仕事をしている人が、こんな支離滅裂でどうするの、と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが。一応チラッと出も考えたオプションのことを含めて皆さんにお伝えできたらと思い、だらだらと書いてしまいました。「おいおい」と思われた方もいらっしゃるかもしれません、ご指摘、ご指導を歓迎いたします。他にも面白いエピソードなど、仕事のことなど、たくさん書き足りないこともあります。それは、また別の機会にご紹介できたら、と思っています。
  

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