2013年6月26日水曜日

「ウィンとフックからの手紙」(UNESCO 青柳有紀氏)

UNESCO
青柳有紀氏
「ウイントフックからの手紙」
(ML連載記事)

 ICS Forumにて1999年4月初旬から5月下旬にかけて、8回にわたり連載されていた青柳有紀さんからのレポートを掲載します。

『ウィントフックからの手紙・1』
「皆様はじめまして」
 UNESCO Windhoek Office (ナミビア共和国)にAssociate Expert in Communication として勤務している青柳有紀(あおやぎ ゆうき)と申します(名前からよく誤解されるのですが、男性です)。今週から新たにICS Forumにて連載を始めることになりました。このメーリングリストに関して私が現在知っていることは、加入者の方の多くが、将来、国際機関での勤務を希望されているということだけで、オーディエンスに関する詳しいdemographic/psychological dataが正直なところ不足しています。勿論、私としましては、皆さんが将来的にJPO/AEを目指すにあたって、極力参考になるようなテーマを取り上げていきたいと思っていますが、時として私の選んだトピックが皆さんの興味および関心の対象とは相容れなかったり、皆さんが本当に聞きたいと思っている事柄に私が気づかないといったことがあるかもしれません。ですから、何かご質問・ご意見等がありましたら、随時私の方までメーリング・リストを通じてご連絡下さい。そうしたinteractionを大切にしながら、この連載を続けていければと思っています。
「まずは簡単な自己紹介から。」
1972年11月  千葉県に生まれる。
1996年3月  慶應義塾大学法学部政治学科卒業
   慶應義塾大学新聞研究所(現メディア・コミュニケーション研究所)修了
1997年9月  ニューヨーク大学大学院修士課程修了(MA in Media Ecology: Studies in Communication)
1997年12月  97年度JPO/AE派遣候補者試験合格
 
 慶應義塾ニューヨーク学院勤務(1997年9月~1998年6月)を経て、1998年9月より国連教育科学文化機関・ウィントフック・オフィスに勤務(Title: Associate Expert in Communication)。現在、南部アフリカのRegional Communication Officeである同オフィスにてRegional Communication Advisorの全般的サポートを中心に、コミュニケーション分野の各プロジェクトの実施、モニタリング、評価および本部提出用レポートの作成等を担当。イニシアティヴを与えられている代表的なプロジェクトは以下の通り。
1)"Staff Training Project for the Namibian Broadcasting Corporation"
*ナミビア唯一の公共テレビ放送局のためのスタッフ・トレーニング・プロジェクト
2)"Multi-Media Centre Project in northern Namibia "
*The UN Poverty Alleviation Programme(ナミビア北部における貧困状況の緩和を目的とした国連システム全体の活動)の一環としてUNESCOが担当している、コミュニティー・ラジオ局およびマルチ・メディア・センターの設立・運営プロジェクト
3)"Communication/Advocacy Strategy Group on HIV/AIDS"
The UN Theme Group on HIV/AIDS(エイズ問題をテーマとした国連システム全体の活動)の一環として組織された、HIV/AIDS感染防止のためのコミュニケーション・メディア利用に関する専門グループのUNESCO代表。
 次回(来週)からは、大学および大学院での専攻、学生生活、UNESCOアソシエートを目指すようになった経緯について話したいと思います。
『ウィントフックからの手紙・2』
「大学~大学院での専攻・学生生活・UNESCOアソシエートを目指すまで・1」
 大学に入学した当初、僕は国際問題を中心にカヴァーするジャーナリストを目指していました。政治学科に入ったのもそうした理由からです。英語は得意でしたが、留学経験はなかったため、卒業後のアメリカ大学院留学は学部入学当時から視野に入れていました。慶應は交換留学制度が整っていて、提携している大学も質の高い教育で世界的に評価されているところが多いのですが、よく調べてみると、実質派遣期間は8ヶ月程度、しかも学位取得は不可能、さらに単位換算システムの関係で日本での学部卒業を1年間遅らせなくてはならないなど非効率的な側面ばかりが目に付きました。アメリカの大学院であれば、努力次第で1年間での修士号取得も可能ということは知っていたので、それならば留学の機会を少し遅らせても、大学院レベルで留学する方が望ましいと思いました(大学院での専攻はジャーナリズムあるいは国際政治学を考えていました)。
 当時まだ国際機関という選択肢はあまり現実的なものとして捉えてはいませんでした。高校2年の時にニューヨークの国連本部を観光で訪れて、そうした国際的な職場に勤務することへの漠然とした憧れはありましたが、では実際にどのような分野で自分が国際平和や開発・援助に関わっていくべきかといったことを具体的な問題として考えられなるほど、当時の自分は成熟していなかったように思います。
 大学2年になった時、僕は慶應の新聞研究所(現メディア・コミュニケーション研究所。終戦直後、日本の民主化を促進させる目的でGHQの指令のもとに設立されたジャーナリズムおよびマス・コミュニケーション研究所)の研究生に選ばれ、そこでマス・コミュニケーションの様々な分野について学ぶようになりました。
UNESCOがいわゆる「新世界情報秩序」の分野で先駆的な政策を打ち出してきたということもそこで初めて学びました。その後、3年生になって学部では「国際政治理論/国際公共政策」のゼミ(薬師寺泰蔵先生)、新聞研究所では「テレビと社会行動」(萩原滋先生)のゼミに入り、念願かなってマス・コミュニケーションと国際政治の両方を専門的に学ぶという状況を手に入れたのですが、僕の将来のキャリア的関心は、国際政治およびジャーナリズムの世界から、次第にコミュニケーション研究というよりアカデミックな方向へと移行しつつありました。
 大学3年の後半から、TOEFLやGRE対策など大学院留学のための準備を本格的に始めるようになりました。それと同時に、アメリカの公共ラジオ局の日本支局(Public Radio International, MARKETPLACE Tokyo Bureau)でインターンをするようになりました。当時、インターン制度というのはまだ日本の学生には馴染みのないものでしたが、職務経験のない自分がアメリカの大学院からのアドミッションを手に入れるにはそうした努力が不可欠なのではないかと判断し、また英語でのコミュニケーション能力をbrush upする機会にもなるだろうということで、思い切って始めてみたのです。そこではデータベース検索やスクラップの管理、日本語インタビューのヴォイス・オーヴァー(英語吹き替え)やレコーディングなどを主に担当しました。もちろん無給でしたが、1年半のインターンでは実に多くのことを学びました(次回にも触れますが、こうした経験はJPO/AE試験の過程でも確実に評価されていたと思います)。
 慶應の卒業式(96年3月)前後に、いくつかの大学院からアドミッションを受け取りました。TOEFLのスコアは620点あったので、あとは「学部卒・職務経験なし」という点がいかに評価されるかが問題でしたが、その不安は見事に的中しました。
第一志望だったコロンビアのSIPA(School of International and Public Affairs/Concentration: International Media/Communication)からは「該当分野でのプロフェッショナルな経験をもう少し積んでから再度アプライしてほしい」という旨の手紙が届きました。
 コロンビアからアドミッションが来なかったことで、僕のキャリアは岐路に立たされました。2年間で国際関係論とジャーナリズム論の2つの修士号を取得するボストン大学のプログラムか(国際ジャーナリストとしてのキャリアを目指すのであれば十分魅力的なプログラムでした)、当時自分の関心が傾きつつあった、アカデミックなコミュニケーション研究のためのニューヨーク大学のプログラムかで本当に悩みました。結局、ニューヨーク大学のプログラムを選ぶことになったのですが、それは将来的に僕がジャーナリストとしてではなく、コミュニケーションの研究者としてキャリアを築いていくのだという自分の意志の実質的な表明でもありました。
 ニューヨーク大学のDepartment of Culture and CommunicationでMedia Ecology: Studies in Communicationを学び始めた僕が、どういう経緯でUNESCOに関わるようになったかはまた次回お話することにします。

『ウィントフックからの手紙・3』
「大学~大学院での専攻・学生生活・UNESCOアソシエートを目指すまで・2」
 1996年の6月末に僕のニューヨークでの大学院生活が始まりました。NYUを選んだ時点で僕の将来のキャリア・ゴールはコミュニケーション関係の研究職という方向に向いていたので、修士課程はよい成績で、かつ少しでも早く終えられればいいと思っていました。アメリカの大学院は努力次第で1年半から2年間のプログラムを1年で終えることは可能なので(大変な努力が必要ですが)、トータル4年間でPh.Dを取ることを目標にしていました。
 NYUでの大学院生活は知的刺激に満ちていました。特にNeil Postman(コミュニケーション論とメディア社会/文化論では世界的な人物)のような知性と直に触れ合うことで、なにものにも代えがたい知的興奮を味わいました。ただ修士レベルでは内容的にそれほど高度なものが要求されていたわけではなく、授業で使われるテキストも既に日本にいた時に個人的に読んでいたものだったことが何度かありました。また、英語でのアカデミック・ライティングの習得にそれほど時間がかからなかったこともあり、最初のセメスターを終えた時点で、1年間での修士号取得の目途がたってしまいました。
 当時、僕の学問的関心は(極めて簡単に言いますが)、印刷および電子メディア(print/electronic media)を意味論的環境(semantic environment)の立場から考察することにあり、それが人間の思考および行動様式にどのような影響の差異をもたらすかということを中心に学んでいました(プログラムの名称、Media Ecologyとはそういう意味です)。それは既存のメディア・コミュニケーション論がmessage content(つまり、メディアを通して伝えられるメッセージの内容)ばかりに注目していたのに対し、メディアの構造それ自体がわれわれに及ぼす様々な影響をprobeする(探る)学問的立場で、言うまでもなくマーシャル・マクルーハンに強い影響を受けたものでした。
 僕はそこから少し関心の矛先を伸ばして、「テレビなどのelectronic mediaが、それまで支配的だったprint mediaからその地位を奪い、人々(とりわけ子供)の中心的な情報環境の担い手となっている現在、それまで必要とされていた一般的な意味でのリテラシー(読み書き能力)に加えて、electronic mediaを通して伝えられる情報をより正確にかつ、クリティカルに理解し、同時に様々なelectronic mediaを利用して自己を表現する能力、つまり”クリティカル・メディア・リテラシー”が必要とされているのではないか、そしてそれはいかにして修得可能か」という問題を扱っていました。そしてその研究の過程で、国連教育科学文化機関(UNESCO)がメディア・リテラシー教育の分野で先駆的な政策を行ってきたということを知ったのです。
 UNESCOは80年代前半から開発問題におけるメディア・リテラシーの重要性に気づいていて、途上国と先進国におけるメディア・リテラシーの格差が一般的なリテラシーのそれに加えて、教育・文化・科学といった分野の発展に大きな格差を生み出すだろうと予測していました。UNESCOはこの分野で多くの専門会議を開催しており、プロジェクトもこれまで世界の広い地域で行なってきたということで、博士課程進学の前にこの分野での職務経験を積むのは極めて価値のあることではないだろうかと考えるようになりました。
 NYUでのセカンド・セメスターが始まって間もない97年の2月頃、JPO/AE募集の広告を目にし、国連日本政府代表部から要項を取り寄せて、UNESCOアソシエート希望と書いて応募しました。それまで国際機関というとどことなく敷居の高い印象があり、名前を聞いただけで尻ごみしてしまうような部分もあったのですが、数ヶ月後に書類審査の合格通知が届くと、少しだけ国際機関勤務というキャリアを現実的に考えられるようになっていました(TOEFLでの語学審査を通れば、少なくとも面接――自分と自分がそれまでやってきたことを直接審査員にアピールできる場――までは進めるのですから)。
 何人かの教授に勧めていただいたこともあり、博士課程進学も選択肢の一つとして確実に残ってはいましたが、高額な授業料と生活費のことを考えると、JPO/AE試験に期待する僕の気持ちは強くなる一方でした。
(次回につづく)

『ウィントフックからの手紙・4』
「大学~大学院での専攻・学生生活・UNESCOアソシエートを目指すまで・3」
 修士課程修了まで約半年となった97年の2月末の時点で、博士課程にそのまま進学するという選択肢は僕の頭から消えました。しかしそれは、JPO/AE試験に特別期待していたからというわけではなく、やはり博士課程進学の前に何らかの職務経験を積むことで自分の専門分野を見極め、かつ経済的に自立したいという理由からでした。それに、この試験の競争率が非常に高いことは以前から知っていましたし、仮に合格できても赴任は早くて98年の6月なので、自分のキャリアに実質1年近くの空白ができてしまうという問題もあったのです。
 「それでは何をすべきか」・・・このことについては簡単に言葉で表現できないほど悩みました。「博士課程進学に向けて自分の専門をより深められるもの」「UNESCOアソシエート希望で応募したJPO/AE試験においても、自分をアピールすることにつながる職業」という二つのポイントを同時に満たすような職業――つまり、コミュニケーション関係の研究職か、自分の専門だった"Media Literacy"あるいは"Media Education"を実践できるような職場が僕にとっては最適に思えました。
 当時、イギリスでは既に"Media Education"がナショナル・カリキュラムの一部として採用されていて、いわゆる日本の中学・高校レベルでメディア・リテラシー教育が広く行われていたのですが、もちろんイギリスで就職活動することなど不可能です。「それならば自分で提案してみよう」ということで、当時、慶應義塾ニューヨーク学院(ニューヨークにある慶應の付属高校)で学院長をしていらした杉浦経済学部教授に手紙を書いてみました。本当に偶然ですが、僕は慶應時代に先生の担当する比較文化論の授業――アメリカ映画をテクストに「都市」について考察する、いわばメディア文化論的授業――を履修していました。面接の際、先生は僕の提案を受け入れてくれ「社会課の授業の一つとしてやってみたらどうか」と言ってくださったのです。
 慶應ニューヨーク学院は海外生活の長い日本人の生徒を中心に受け入れており(彼らのほとんどは卒業後慶應大学に進学する)、教職員の60%はアメリカ人で、授業の半分は英語で行われており、バイリンガルで慶應大学の事情を分かっている人間を教師として望んでいたようです。あと、システム的には米国の学校法人なので、日本の文部省の管轄外にあり、カリキュラム設定が柔軟に行えるという利点がありました。実際、「社会学」や「経済学」といった授業も開講されていて、僕の提案を受け入れてもらえるだけの下地はもともとあったようでした。
 97年6月の時点で就職の目途をつけた僕は、7月にロンドン大学教育研究所で行われたNYUとの合同プログラム"Media Literacy and Media Education"に参加しました。この授業がNYUでの修士号取得のために必要な最後の授業でした。2週間の集中的なプログラムの中では、実際に高校でのMedia Educationの授業を視察したり、David Buckinghamといった第一線の研究者のレクチャーを受ける機会にも恵まれ、9月以降、自分がそれを実践する上で大変参考になりました。
 97年8月、NYに戻った僕はJPO/AE試験の第2段階、つまり語学審査のためのTOEFLを受けました。あらかじめ8月の試験を受けるようにとの連絡が外務省からあり(それ以外の月のTOEFLスコアは受け付けない)、いわゆる「一発勝負」ゆえの緊張感はかなりありました。同じ年にJPO/AE試験に応募していたYale大学の友人からは「630点が足切りのためのラインらしい」と言われていたのですが(実際は613点ぐらいらしい)、9月に送られてきたスコアは十分だったので、多分問題ないだろうと安心しました。
 97年9月はじめから、慶應義塾ニューヨーク学院での勤務が始まりました。コミュニケーション論(内容はいわゆる"Media Education"を基礎にしたもの)」を中心に、「日本の社会と文化」「日本史」も担当しました(おそらく僕の授業が日本人の生徒を対象にして行われた最初のMedia Educationのクラスだと現在も自負している)。あと、途中から事情で同僚の一人が退職したために、11年生(日本で言う高校2年生)の担任をするようにもなり、生徒と触れあう時間も増え、「教育」の様々な側面について考えさせられるようになっていきました。
 10月に外務省から語学審査の合格通知が届き、11月6日にジュネーヴで最終面接を受けました。面接の形式についてはここでは詳しく触れませんが、内容的にかなり厳しいものでした。具体的にかつ論理的な受け答えができるかどうかが試されていた気がします。即答不可能な難問(?)も国連職員代表の方から与えられました。例えば、「君の担当する難民キャンプで200枚の毛布が必要になって、結局100枚しか届かなかったらどうしますか?」というような問いです。しかもこの質問は3つの質問を同時に与えられた中の1つでした(つまり、3つの質問の内容をすべて暗記し、それらに対する見解を順次述べなくてはならない)。とりあえず僕は「現実に100枚しかないのだから、難民の中でどうしても毛布が必要な100人をピックアップするしかない」と答えました。
 専門分野のことについては問題ないのですが、こうした質問をされると、やはり内心焦ります。ただ重要なのは、面接官は僕がUNESCO志望ということを知った上でこうした「難民キャンプ」に関する問いを与えているのであって、僕から何か専門的な見解を求めているのではなく、いかに落ち着いて、論理的に答えられるかを見ていたのだと思います。
 「あなたは責任感はありますか?」という問いもありましたが、「はい、そう思います」と答えても、「どうしてそう言えるのですか?」と当然切り返されます。もちろんここでは、僕が責任感があるということを示す具体的な事例やエピソードを挙げて例証することが求められているわけです。
 あと気づいたことは、面接官は僕がタフかどうか――体力的におよび精神的に――を重要なポイントとして見ていたということです(実際にフィールドに勤務している今、その重要性を改めて感じている。慣れない環境での生活を強いられ、かつ多様な国籍の人々と共に働いていくには、肉体的にも精神的に極めて健康でなくてはやっていけない)。「どのようなスポーツを日常的にしているか」「フィールド勤務の困難性についてどれくらい知っているか」といった問いも実際にありました。
 40分近い面接を終え、翌日――それは僕の25回目の誕生日でした――僕はローザンヌの街まで足を伸ばしました。試験の結果がどう出るか、それは全く予想できませんでしたが、限られた時間の中で、自分自身と自分がこれまでしてきたこと、UNESCOで何がしたいのか、そして――これが何よりも重要だと思うのですが――僕がUNESCOで一体何をできるのかをアピールすることはできたと思っていました。
 坂道の多いローザンヌの街を散策しながら、ささやかな充実感が25歳になったばかりの僕を満たしていました。

『ウィントフックからの手紙・5』
「大学~大学院での専攻・学生生活・UNESCOアソシエートを目指すまで・最終回」
 ジュネーヴでの面接を終えてから合格通知を手にするまでの約1月半はとても長く思えました。合否連絡先を日本の実家にしておいた関係で、発表の時期とされていた12月の半ばが近づくにつれ、何度か日本からのFAXが届くのを見て夜中に起きてしまったこともありました。
 長かった僕のJPO/AE試験初挑戦は幸運にも合格という形で終わったのですが、今振り返ってみると、競争率の高いこの試験を突破するにはいくつかのポイントがあるように思えました(もちろん試験に合格することが最も大切なことではありません。それはあくまでスタートです)。以下にそれらの中でも最も重要だと思えるものを挙げてみたいと思います。
(1)大学や大学院の名前ではなく、評価の対象となるのはスペシャリストとしてのキャリア形成の有無:
 「Yaleの大学院で国際関係論のMAを取った」といったことは全く合否には関係ないと言えます(いわゆる名門校出身のJPO/AE志願者はもともと沢山いる)。重要なのは、自分がどのような専門分野を大学・大学院で築き、国際機関という枠組のなかでそれを生かしていけるか、ということだと思います。その意味で、スペシャリストとしてのキャリア形成を考える際に、最初に「とにかく国際公務員になりたい」という願望ばかりあるのは(僕には)不自然に思えます。もちろん、高校生や大学1,2年生の段階でそう考えるのは結構ですし、あくまで国際機関での勤務を目指すきっかけとしてはいいでしょう。しかし「国際公務員になりたいから」という理由で、ある大学院を選んだり、専攻分野を決めるのは論理が転倒しています。なぜ転倒しているかといえば、「国際公務員になりたい」という自分の欲求を突き詰めて考えていくと、「なぜ国際公務員なのか」「どの国際機関なのか」「なぜその機関でなくてはならないのか」「何が自分にできるのか」といった問いについて深く考えなければならず、結局「専門性を築くことがいかに大切か」という一つの結論に到達せざるを得ないからです。
 したがって、JPO/AE試験に際して「おすすめの大学」「有利な大学」などありません(というよりも、そうした設問がそもそも成り立たない)。僕自身驚いたのですが、僕がここで言及しているような「国際公務員になりたい気持ちが強すぎる人たち」というのは、残念なことに決して少なくないようです(世界の動き社『国連職員への道』148~149ページ参照)。
 JPO/AE試験を本気で目指す方は、まず自分が何を専門にしてキャリアを築いていくか深く考えてみることをお勧めします。あるいは、各国際機関の活動に関してよく調べてみることです。それぞれの機関がどのような分野で、どのような政策を実行し、どのような人材を必要としているか知っておくべきです。そうした中で、自分が興味の持てる分野が見つかるかもしれません。あるいは自分がこれまでやってきたことと、国際機関の活動分野が一致するかもしれません。興味もないのに「国連でつぶしが利きそうだから」という理由で国際関係論を専攻にするのは最悪の選択だと思いますし、JPO/AE試験に合格する可能性は低いと思います。
(2)希望する国際機関とその職種についてよく知っているかどうか
 (1)で述べたこととも一致しますが、「どの機関で何をやりたいのか」そしてもっと重要なことは「何が自分にできるか」ということをはっきりさせておくということです。国際公務員になりたいという方は多いようですが、では自分がどの分野で、どのように国際機関の活動に貢献できるか明確に答えられる人はあまりいないと思います。僕がJPO/AE試験に合格した最大の理由を挙げるとすれば、それはUNESCOがコミュニケーションの分野で何をこれまでやってきて、現在どのようなプロジェクトを行っているか、そして将来的にどのようなヴィジョンを持っていて、自分がそれにどうかかわっていけるか、ということを明確に捉えていたからだと思います。
 
『ウィントフックからの手紙・6』
 先週は勝手ながらお休みさせていただいたことをお詫びいたします。実はナミビア北部で実施されているプロジェクトのモニタリング(the UN Pilot Poverty Reduction Programme in Ohangwena)があり、昨日ウィントフックに帰ってきた次第です。
 JPO/AE試験合格までの経緯については先々週までで一応の区切りがつきましたので、今週からはUNESCOへの派遣から現在の勤務状況等について触れていきたいと思います。
「UNESCO Windhoek Officeへの派遣決定から現在まで」
 JPO/AE試験に合格しても、実際に派遣される機関と地域が決定するまでには数ヶ月(人によっては1年近く)時間がかかります。僕の場合、幸いにも98年1月に希望通りUNESCOへの派遣が決定し、その後5月中旬に人事センターから以下の3つのポストが提示されました。
1)ジャカルタ・オフィス/Associate Expert in Education
2)ヤウンデ・オフィス(カメルーン)/Associate Expert in Communication
3)ウィントフック・オフィス(ナミビア)/Associate Expert in Communication
 「どれを選んでもいい」と人事センターの方は言ってくださったのですが、パリのUNESCO日本政府代表部としてはジャカルタ・オフィスのポストを優先的に割り当てたい意向とのことでした。おそらく教育の分野での実務経験があることと、当時のインドネシアを含めた東南アジア地域でコンピューターの導入を含めた遠隔地教育のプロジェクトが行われていたことから、僕が適任と判断されたのでしょう。しかしながら、与えられたJob Description(実際に担当する職務の内容が詳しく明記されている極めて重要な書類)の内容はコミュニケーション分野に関連するものよりも、やはり教育分野に触れる部分が圧倒的に多く、また前回までお話したように僕自身のeducational backgroundおよび将来的なCareer Goalはあくまでコミュニケーション分野にあったことから、ヤウンデかウィントフックのどちらかに絞ることにしました。しかしヤウンデ・オフィスの場合、「このポストを希望する場合のみJob Descriptionが作成される」とのことで、5月の時点で実際の職務内容を確認することができませんでした。つまりこれは「派遣が決定してしまった後に担当する職務内容の点で異議があっても交渉の余地がないかもしれない」ということを意味しており、なおかつ「前もってJob Descriptionが作成されていないということは、それだけそのポストが具体的かつ逼迫した需要に基づくものではない」という解釈の可能性を残していたことから、ウィントフック・オフィスを選択するのが適当と最終的に判断しました。
 その後、6月に慶應NY学院の卒業式があり、それをもって当校を退職しました。正直な気持ちを言えばあと1年は勤務すべきだったように思います。JPO/AE試験の過程で人事センターの方に認めていただいたことは大変光栄だったのですが、次年度からMedia Educationの本格的カリキュラムおよびテキスト開発と、同僚の米国人教職員とある合同プログラムを始める計画があったからです。特に後者は高校生向けのInterdisciplinary Social Scienceのプログラムで、社会課主任(Ph.D in Poli-Sci)と、経済学および国際関係論を担当していたSAIS出身の同僚との3人で社会科学に関する基礎的な思考能力育成のためのバイリンガル・クラスを作るという、今考えても非常にユニークなものでした。
 9月下旬にパリ本部で1週間のブリーフィングを受けたあと、ナミビアに赴任し、現在に至っているわけですが、ウィントフック・オフィスを選択してよかったと思っています。オフィスの人間関係も良好ですし、何よりも所長が直接の上司を務めていることが、ここでの職務の遂行をスムーズなものにしてくれています(彼はHead of OfficeとRegional Communication Advisorを兼ねている)。というのも、直接の上司が所長でない場合(実際それがほとんどですが)、上司と所長との間にコミュニケーション不和や意見の決定的な相違があると、両方の意見を聞かなくてはならないAEは時として深刻なdouble bindに陥らざるをえないからです。
 プロフェッショナル・スタッフは現在僕を含めて6人で、そのうち3人はAEです。小さなオフィスですから分業化が徹底されておらず、結果的に担当するプロジェクトの全体に関わることができ、どうやってプロジェクトが動いていくのか一から学べます(その分、秘書的なことまで全てこなさなくてはならないですが)。「本部よりもフィールド」という意見を先輩の方々からもよく聞きますが、その通りだと思います。いわゆる国連システムの機構改革が進められ、Decentralizationが徹底されつつある中で、フィールドでの経験の重要性は増すばかりです。あと、国連システムの有効性および限界を「現実的に」知るという意味でも、フィールド勤務には意味があります。分業化が進んだ巨大な官僚機構である本部での勤務では、「プロジェクトで建てられたコミュニティー・ラジオのおかげで、迫りつつある象の群れの危険を回避できたマラウィ共和国の村人の顔」はなかなか見えないと思います。あと、「自身が企画したエイズ対策を目的としたジャーナリストのためのワークショップで昼食だけ食べてレクチャーも聞かずに帰るナミビアの新聞記者――ちなみにこの国の5人に1人はエイズ感染者――に憤慨し、開発・援助の難しさを知る」といったともあまりないと思います。
 決して本部勤務では「現実」が見えないと言っているのではありません。そこでの経験もまた国際機関をめぐる一つの現実でしょう。ただ、2年間という極めて限られた時間の中で国際機関勤務を経験するのであれば――そしてその後も国際機関で勤務しつづけられる可能性が事実として40%に満たないのであるなら、なおさら――僕はフィールドでの経験を大切にしたいと思うだけです。以前UNDPの東南アジア地域代表を務められておられる日本人の方もおっしゃっていましたが、ただでさえステータスが高い(と思われている、あるいは自身が思っている)国連職員が本部での生活に慣れてしまうと何か大切な部分を「勘違い」してしまいがちな気がするのです(彼はそれを「NY病」と形容した)。
 
『ウィントフックからの手紙・7』
「ナミビア赴任から現在まで」
 ウィントフックに赴任してからの約2ヶ月ほどは、担当するコミュニケーション関連のプロジェクトのファイルに目を通してバックグラウンドを理解するという単調な作業ばかり続きました。98年9月28日にここでの勤務を開始したのですが、所長は僕に何のブリーフィングもせぬまま数日後UNESCO総会出席のためパリに出張、なおかつ前任者のコミュニケーション・コンサルタントとは連絡もつかず、という状態で「まともな仕事をさせてもらえるのだろうか」と少し不安になったのを覚えています。
 所長が3週間ほどの出張から帰ってきてからも、僕の仕事のほとんどは彼の書簡やドキュメントのドラフト作成でした。たしかにつまらない作業で、最初の給料が支払われた時には幾分きまりの悪い気にさえなりました。しかしながら、この経験はそれなりに価値のあるものだったと思います。というのも、最初の2ヶ月ほどで、UNESCOで使用される書簡や各種契約書、プロジェクト・ドキュメントのフォーマットを学び、担当するプロジェクトの概要を掴むことができたわけですから。
 3ヶ月目が過ぎると、徐々に多くの仕事を任されるようになりました。赴任から約8ヶ月経った現時点でイニシアティヴを与えられているプロジェクトは大きく分けて以下の3つです。
 1)"Staff Training Project for the Namibian Broadcasting Corporation"
*ナミビア唯一の公共テレビ放送局のためのスタッフ・トレーニング・プロジェクト 
2)"Multi-Media Centre Project in northern Namibia "
*The UN Poverty Alleviation Programme(ナミビア北部における貧困状況の緩和を目的とした国連システム全体の活動)の一環としてUNESCOが担当している、コミュニティー・ラジオ局およびマルチ・メディア・センターの運営プロジェクト
3)"Communication/Advocacy Strategy Group on HIV/AIDS"
*The UN Theme Group on HIV/AIDS(エイズ問題をテーマとした国連システム全体の活動)の一環として組織された、HIV/AIDS感染防止のためのコミュニケーション・メディア利用に関する専門グループのUNESCO代表。
 残念ながら担当する南部アフリカ地域では大学院での専門だったMedia Educationのプロジェクトは実施されてはいないのですが、コミュニケーションの広い分野を扱えるということで今はそれなりに満足しています。
 「JPO/AEの現実とは」
 前回、JPO/AE試験に際して重要なのは「スペシャリストとしてのキャリア形成」という個人的な見解を述べましたが、「ではJPO/AEとしての赴任後、自分の専門分野を十分に生かす機会が実際にあるのか」といわれれば二つの意味で「必ずしもそうとは限らない」と言わざるを得ません。というのも、一つにはJPO/AEの需要が派遣される時期や地域によって異なっており、自分の専門分野と一致するプロジェクトが行われている地域に運良く派遣されるとは限らないということ、また前年までのプロジェクトが終了し、新たなプロジェクトが開始されるといったことが毎年どの地域でも繰り返されていることが挙げられます(ただ、JPO/AE候補になったあと実際に赴任地が決まる過程では、回覧されている各JPO/AE候補の履歴書をもとにそれぞれの課やフィールド・オフィスが派遣の需要を打診するというプロセスが存在しているので、何らかの形でJPO/AE候補それぞれの専門性が最終的に赴任する職場で必要と見なされた、とも言えますが)。
 もう一つには、JPO/AEが該当するP2レベルで要求される職務の内容が、大学院等で要求される専門的知識の水準と一致しない、あるいは日常的にプロジェクトを運営して行くうえで求められる能力と、アカデミズムで求められる素養は実際問題として異なるという点が挙げられます。仕事柄ほかの国から来た各国際機関のJPO/AEと話をすることが多いのですが、彼らの多くが「この仕事は官僚的で自分の専門以外の細かなことに振り回されるいことが多くつまらない」と口にします。実際、国際公務員の仕事はとても地味です。例えば、「ナミビア唯一の公共放送局のトレーニングのプログラムの実施」といっても、僕らが実際にジャーナリストのトレーニングをするのではなく(当然ですが)、何をするかといえば、まず放送局のトレーニング担当者と何度もディスカッションをして、今年度のワークプラン(計画書)を作成し、予算案を立て、プログレス・リポート等各種報告書と共にパリ本部に送付し、それから計画されたトレーニング・コースを担当するコンサルタントや教官を選び、契約書を作成し、航空券等を手配をアドミに依頼します。コースが終了すればレポートを提出させ、費用の支払いをアドミに依頼し、年度末になればまた報告書を作成し、問題点や課題を指摘して本部に提出するといった、行政的な仕事が中心なのです。 「官僚的」という言葉は一般意味論的に言うといわゆるdead-level abstracting(極めて抽象的でそれ自体意味を成さない言葉)で、聞かされる側はどういうことかわかったようでわからないものですが、自分の経験から言って、国際機関勤務をめぐる「官僚的側面」とは、上に挙げた例に代表されるようなことだと思います。つまり、
(1)あらかじめ仕事の枠組がしっかり決められているために、知的生産作業的な側面は少なく、「いかに全体を上手くコーディネイトして円滑にプロジェクトを運営して行くか」という、management/administrationの能力を求められることが多い
(2)P2レベルでは担当するプロジェクトを与えられても、その予算を自分の判断で管理・運営する責任まで与えられることは稀なので、結局重要な意志決定は上司か所長によってなされるため、「自分でプロジェクトを動かしている」という実感が持てない
(3)上司のためのレターやドキュメントのドラフト作成といったこま切れの雑務に追われることが少なくなく、自分のプロジェクトに十分な時間をかけて知的インプットをする余裕がない
といったことです。しかし、これらは少し考えればわかることで実際に国連に勤務してからわざわざ「幻滅する」ようなことではないと思います(それをnaiveと言う)。入社2年目程度で自分を前面に押し出す仕事をさせてもらえるほうが稀なのです(まして国際機関のような巨大な組織ならなおさら)。自分が担当するプロジェクトでも、意志決定に関わる重要な書類、予算に関わるものは、自分の名前でサインなどさせてくれませ
ん。当然、自分がドラフトしたものがすべて所長の名前で出されるのです。そういえば先日こんなことがありました。所長に依頼されて「HIV/AIDS感染防止のためのメディア利用に関するリサーチペーパー」を書いたのですが、これはパリ本部の依頼で彼がUNESCO代表として出席する国際会議のためのものです。つまり僕は彼の名前で発表されるためのリサーチ・ペーパーを書いたわけです。
 こうしたことを僕自身は必ずしも否定的にばかり捉えているわけではありません。それは当然のことですし、「官僚的だ」と嘆いても、実際国連職員は官僚なのです。だいいち、仕事を面白くするのは結局自分自身です。例えば、本部に提出するリポートに工夫して、理論的な見地からプロジェクトエヴァリュエーションや再検討を試みたり、よりアカデミックなことをしたければ、リサーチ・プロポーザルを提出して実行することも、それはそれで可能なのです。
 今回はとりわけ長くなってしまいました。

『ウィントフックからの手紙・8』
「必要とされる語学力について」
 UNESCOに勤務し始めてから8ヶ月近くが経過しましたが、自分自身にとって最も大きな課題だったのは語学力、とりわけ「オーラル・コミュニケーション能力の向上」という問題でした。 
 前回にも触れましたが、通常要求されるP2レベルの仕事――あくまでUNESCO Windhoek Office での経験からしか言えませんが――それ自体は比較的単純なもので、大学院や企業等でしっかりと経験を積んできた方がそれを困難に感じることはまずないと思います。ただ、必要とされる語学力のレベルは高く、この点には前もって十分に留意された方がよいでしょう。
 『国連職員への道』の中で先輩方も言及されていましたが、最も重要なのは「ドラフト能力」、つまり英語(あるいは他の国連公用語)で文章を書く能力だと思います。ただこれは、僕のように米国の大学院に留学するまで海外での生活経験が全くなかった人間でもある程度は対応できる問題と言えます。大学院で要求されるアカデミック・ライティングの能力、つまり英語で論理的な文章を具体的かつ簡潔に書く能力はそのまま国際機関での各種レポートおよびドキュメント作成にも応用できるもので、実際、ドラフト能力に関して現在の職場で問題を感じたことはありません。考えてみると、自分自身の英語でのドラフト能力向上に決定的な効果をあげたのは、やはり大学院留学ということになるので、英語あるいは仏語圏での留学/生活経験がなく、将来的にJPO/AEを目指そうとする方には学部もしくは大学院留学を勧めます。しかし、これは決して「留学しないと十分なドラフト能力は身につかない」ということではありません。留学経験がなくとも優れたドラフト能力をお持ちの方は実際におられると思います。 
 「ドラフト能力」と同等に必要だと感じたのは、formalかつdecentな英語でのオーラル・コミュニケーション/プレゼンテーション能力です。留学することで日常生活に必要な会話力や専門分野に関してのディスカッション能力、そしてある程度のプレゼンテーション能力は身につくとは思います。しかし、国際機関に勤務してさまざまなカウン
ターパートと密接に連絡をとりつつプロジェクトを進めていく中では、それ以上のオーラル・コミュニケーション能力が求められことが多いのです。例えば、プロジェクト遂行に関して協力を求めたい省庁の担当官との会談などでは、「要件だけ伝えられればいい」というわけにはいきません。ウィットに富んだ世間話もできなくてはならないし、友好的な雰囲気をつくりつつ、こちらの要求をさりげなく提示するといったことも実際必要になります(もちろん、自分の仕事の基準をどこに置くかでこの点も変わってくるのでしょうが)。UNESCOでの勤務経験が長い所長と共にそうした場に参加すると非常に勉強になるのですが、同時に自分の未熟さ、課題の多さを痛感します。
 皆さんが学部および大学院でのアカデミックなトレーニングを十分に積んでいることを前提にして「JPO/AEとして勤務する上で最も問題となるのは?」という問いに答えるとすれば、僕は迷うことなく「語学力」と答えます。というのも、「語学力」はおそらく皆さんもおわかりのように単に職務遂行においてのみ必要とされる能力ではないからです。国際機関は多様な文化的バックグラウンドを持った人々からなる組織ゆえに人間関係の面でも苦労することが多く、それが理由で辞めていく人も実際多いです。こうした異なる人間からなる組織ゆえに、われわれが相互のコミュニケーションにおいて頼れるのは結局のところ「理性」のみで、それはすなわち公用語の使用によってのみ可能になります。「自分を守れるかどうかはコミュニケーション能力次第」と言ってしまうと極端かもしれませんが、この命題に正面切って反論できる人はそういないと思います。
 完璧な日英バイリンガルあるいは日英仏トリリンガルの方に言わせれば、僕がここで述べていることはあまりに自明のことかもしれません。しかし僕自身、大学院留学まで海外で生活するというライフチャンスに恵まれなかったこともあり、またこのメーリング・リストに参加されている方のほとんどは僕自身と近い境遇にあると思われることから、今回はついこの点に拘泥してしまいました。
 これまで基本的に週一回のペースでこの連載を続けてきましたが、次回『ウィントフックの手紙・最終回』――「キャリア・パスとしてのJPO/AE」――をもって、とりあえず一つの区切りとしたいと思います。以後は時間の許す範囲で不定期にUNESCO Windhoek Officeからのレポートをお送りできればと思っています。
 それでは、また。

『ウィントフックからの手紙・最終回』
「キャリア・パスとしてのJPO/AE」  
 赴任から約8カ月が過ぎ、僕のUNESCO ウィントフック・オフィスでのアソシエートとしての生活もほぼ中間点に差しかかってきました。
 「中間点」を意識するということ――それはここで過ぎていった月日だけでなく、そのもう一方にあるものもまた、現在の僕を確実に捉えているということに他なりません。想像力は、ここでの生活の終わり――2000年9月19日以降のこと――を僕に否応なしに付きつけます。
 UNAIDS関連で一緒に仕事をしていたオランダ人のUNICEF・JPOは次のポストをブラジルに見つけ(オランダのJPO/AEは任期が4年――ただし2年毎に1年づつ任期の延長が認められることから計6年の勤務が可能)、3年間を過ごしたナミビアを先週去っていきました。今年の12月で任期が切れる同僚のドイツ人アソシエート(Social and Human Science)は、所長からの強力なサポートにも関わらず、既にUNESCOパリ本部から「正規職員として残ることはほぼ不可能」という旨の通知を受け取っていると、所長の秘書が数日前僕に話してくれました。
 外務省のJPO/AE制度は、「国際機関での勤務を希望する若い日本人に機会を与える」という目的のもとに実施されています。実際、ジュネ―ヴでの最終面接の際にも「青柳さんはこれからもずっと国際機関で勤務しつづける意志があるのですか?」という質問を受けました。その時僕は、確かこう答えたように思います。
 
「UNESCOはコミュニケーションおよび教育の分野で多岐にわたる活動を行っており、2年間のアソシエート・エキスパートとしての経験の中で触れられる側面は極めて限られたものでしかない。だとすれば、その2年間は私に、将来的なUNESCOでの勤務に対するさらなる動機や目的意識、そして希望を与えることはあっても、その逆に作用するとは考えられない」
 
 前回までの連載で、僕はUNESCOアソシエートの現実についてなるべく冷静に述べてきたつもりです。それ故に、お読みになった方の中には僕が現在のUNESCOでの職務に関して満足に思っていないのではないか、とお考えになった方もいるかもしれません。
しかしそれは事実とは異なります。確かに、現在の職場で勤務する中では連載で触れたような様々な問題があることは否めず、またUNESCOにアソシエートとして勤務する以前からのキャリアゴールだった大学での教育および研究職に対する憧れも、かつてと同じような輝きをもって僕の中にまだ存在しつづけています。しかしながら、僕がそれ以上にUNESCOでのキャリアに多くの魅力を感じているというのもまた事実なのです。一例を挙げるとするならば、現在僕が所属しているCummunication, Information and Informatics (CII) SectorのEvaluation課ではコミュニケーション関連の各プログラムのアセスメントおよび評価を行っており、将来的にそういったセクションに勤務することができれば、自分の知的関心を満たしつつ、より効果的なCIIセクターのプロジェクト運営にも貢献できるのではないかと期待しています(UNESCOのプロジェクトに関するニーズ・アセスメントおよびモニタリング、そして何よりもエヴァリュエーション――プロジェクトの結果が実際に当初の目的と一致しているかどうかを評価し、そうでなければどこに問題があるかを指摘すること――のシステムはUNICEFといった他の国際機関と比較しても極めて貧弱だと感じることが多い)。
 ただ、事実として任期終了後も各国際機関に残れるJPO/AEは40%に満たないわけで、どんなに希望したところでタイミングよく空席ポストがでなければ2年目以降、UNESCOに残ることはできないわけです。この40%という数字は、(僕の記憶が正しければ)正規職員としてだけでなく、短期契約のコンサルタントとして国際機関に残る方の割合も含まれており、正規職員として残れる割合はさらに厳しいものと捉えて間違いないでしょう(ただし正規職員になれる割合は各国際機関によっても異なりますが)。もちろん、JPO/AEを経験後すべての人が積極的に国際機関に残ろうと努力しているかといえば、そうとも限らないのが現実です。実際に知り合いのJPOの方は国連システムよりNGOに活動の意義をを見出して、任期終了後はNGOを中心に活動すると僕に話してくれました。ただいずれしにしても、アソシエートの延長としてあるUNESCOでの勤務は、あくまで僕にとってのキャリア・パスの一つとして考えざるを得ないというのが正直なところです。 
 現在、UNESCOのCIIセクターに属している日本人は僕ただ1人で、とかくアドミニストレーションや人事(あとUNESCOで言えば教育および文化セクター)に集中しがちな日本人の人材の中で、CII分野のプログラム・スペシャリストとしてUNESCOでのキャリアをスタートした自負はあります。日本政府はUNESCOの活動予算の約25%を拠出しており、なおかつ日本がunder-represented(分担金の割合から考えて望ましい職員数を満たしていない国)であるという事実を考慮すれば、この状況でも来年9月以降に僕が正規職員として残れないなら、もうそれは「どうしようもないこと」として受けいれざるを得ないと思います。
 個人的な話になりますが、それでも僕は現在の不確定な状況に対して不安で仕方がないわけではありません。UNESCOに残れなくても、やりたいこと、そして僕にできることは沢山あると思うからです。性格かもしれませんが、その方がかえって自分の様々な可能性を試すことができていいように思います。来年9月以降、僕がUNESCOに残っていなかったら、多分アメリカの大学院に戻っているか、もしかしたら京都とパリで趣味の料理を仕事として本格的に学び始めているかもしれません(極端でしょうか? 僕にはそう思えないのですが)。2月にナイロビで受けた競争試験の結果次第で、今度は本部のPublic Informationの仕事に就いているかも知れません。いずれにしても、自分が興味の持てること、楽しいと思えること、そしてそこに自分なりの意義を感じられることを僕はしているはずです。
 よくJPO/AEを目指す方からもJPO/AEをめぐる将来のリスクについて相談を受けます。その時いつも思うことは、「2年目以降が不確定なこと」に対してあまりに不安を感じるなら、その時点で彼(女)は多分この制度に向いていないということです。というのも、実際に僕よりももっと能力があり、国際的な環境での適応力を持ちながらも、JPO/AEをめぐる将来的な不確定さゆえに足を踏み出せなかった多くの友人を見てきたからです。「なぜ日本人の国連職員が増えないか」という理由を、われわれの語学力や学歴や留学経験のパーセンテージに求めるのはある意味、一面的だと思います。「契約雇用社会」「実力主義」「不確定性」といった、国際社会の厳しい環境に踏み込んで行くだけの気持ちを持てるかどうかで、可能性の多くが既に限定されているのだと思います。
 これまでの連載でも触れたように、JPO/AEをめぐる現実には多くの側面があり、特に任期終了後の不確実な将来については、国際機関で働きつづける意志が強い方ほどそれを不安に思わざるを得ないという一つのパラドクスが存在しています。そうした現実を前にして、「にもかかわらず!」(Max Weber)と言える人間のみが、この関門を突破し、自らの専門性をもって、国際社会における個人としての責任を最大限に果たすための一つの機会を与えられるに値するのだと、僕は考えます。
 
あなたはなぜいつも他人の報告を信じてばかりで、自分の目で見たり、調べようとしなかったのですか。
  ガリレオ・ガリレイ『天文対話』
<了>
●●●●●●●その後●●●●●●●

『ニューヨークからの手紙 2008』
【はじめに】
皆さん、本当にご無沙汰しております。
暫く前に、管理人の二井矢さんから『進めJPO』の続編を書いてほしいというご依頼があり、JPO/AE後の経緯についてこのような形でまとめさせていただくことになりました。
僕がUNESCOのアソシエート・エキスパートとしてナミビアに赴任したのが1998年の9月なので、あれからもう10年近く経ったことになります。タイトルが示す通り、僕は今、ニューヨークでこの文章を認めています。

【ウィントフック―パリ】
2年間のナミビア勤務のあと、アソシエートとしての3年目の任期延長が認められた僕は、日本政府代表部の協力のもと、パリ本部に新たなポストを得ました。Communication and Information SectorのDivision of Communication Developmentに配属され、赴任してすぐ「アジア・太平洋デスク担当官」というポジションを与えられました。同地域で広く実施されているプロジェクトを本部からサポートし、管理するというのが主な仕事でした。3年目の任期が後半に差しかかった頃、Divisionのディレクターが僕のための正規ポストを次年度予算に組んでくれ、手続きに従ってポストの公募も行われました。また、アソシエートとしての任期終了と正規ポストに就くまでの「つなぎ」として、彼は僕にRegular BudgetからAssistant Program Specialistのポストまで作ってくれていました。2001年の10月のことです。
しかしながら、僕がパリに残ってそのポストに就くことはありませんでした。同じ年の夏に有給休暇を利用して受験していた群馬大学医学部から学士編入学試験合格の通知が届いたからです。

【帰国、そして】
2001年の12月31日をもってUNESCOを退職した僕は、翌年の初めに帰国し、「グローバルに活動する感染症内科専門医」になることを目標に、4月から医学生になりました。4年間の大学在学中にUSMLE(米国医師国家試験)に合格し、日本での1年間のインターン生活を経て、昨年7月からNYのアルバート・アインシュタイン医科大学付属、ベス・イズラエル・メディカル・センターにて内科研修をしています。3年間のプログラム修了後に米国内科専門医の資格を取得し、さらに2年のフェローシップを経て感染症内科専門医の資格をとる予定です。その後は、低開発国でのエイズを中心とした感染症治療と予防に貢献すべく、医師および開発コミュニケーションの専門家としてフィールドに戻るつもりです。長期的なキャリア・プランとしては、今後10年は臨床を中心に経験を積み、その後は徐々に活動を公衆衛生の分野にシフトしていき、最終的には再びWHOなどの国際機関で勤務できればと考えています。
ナミビアで勤務した2年間に、僕がとりわけ興味を持って取り組んだのがHIV/AIDS予防に関するプロジェクトだったことは、『ウィントフックからの手紙』に綴った通りです。当時から医療に対する関心は強かったのですが、パリ本部に赴任してから本格的に学んでみたいという気持ちが強くなり、医学部受験を決意しました。増加傾向とはいえ日本ではHIV/AIDSの症例がまだ少ないため、症例も多く感染症内科専門医育成のための優れたプログラムがある米国での研修を視野に入れた上で帰国を決意しました。多く方々の理解と協力を得ることができ、こうしてNYまで辿り着いたといったところです。
今の自分があるのは、アソシエート・エキスパートとして国際機関で勤務する機会に恵まれたからに他なりません。そもそもナミビアに赴任することがなければ、僕が医学を志すこともなかったでしょうし、UNESCOでの勤務経験が評価されたからこそ医学部への進学や米国での研修の機会が与えられたのだと考えています。25歳という比較的若い年齢で国際機関の一員となり、フィールドと本部の両方で勤務することができたのは本当に幸運でした。だからこそ、25歳までに自分で築き上げてきた専門性だけを頼りに、その後の数十年を同じ環境のもとで生きていくのは惜しいと思いましたし、もう一つ、新たな分野で専門性を身につけ、より多くの人々に貢献できるような人材になれるのではないかと考えたのです。

【むすびにかえて】
医療システムも文化も異なる米国で、多くの問題を抱えた患者さんたちの治療に携わる今、思い通りに物事が運ばないことに戸惑い、辛い思いをすることも度々です。「UNESCOに残っていたらどうなっていただろう」と、懐古的な気持ちになることもあります。しかしながら、世界中から最先端の医療を学ぶために多くの人材が集まるNYで医師として働き、学ぶ機会を与えられていることは、やはり何物にも代えがたいことだと思います。目指しているものはまだ遠くにあり、自分の将来に対する期待と同じくらい不安もありますが、一歩一歩、焦らず前に進んで行きたいと思います。

Yuki Aoyagi, MD, MA.
Resident, Internal Medicine
Beth Israel Medical Center

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